フィルラルカルクのひつじ
 果てなき青の深みの深み、空の最も高いところに、フィルラルカルクと呼ばれる国がある。



 天の庭とも称されるそこは、常春の輝く緑に満ち、色とりどりの花にあふれた、それはうつくしい場所なのだという。けれどその国へたどり着けるのは、右の瞳に青い花がほころび、左の瞳に青い鳥が囚われた者だけなのだそうだ。かの者は、翼ある青い使者の背を許されて、その天の高みへ導かれるのだと伝えられている。



 フィルラルカルクへの導き手は、今はさかなであるのだが、その昔はひつじであった。世界中の悲しみを凝縮したような青色の、それは見事な翼と毛並みのひつじだ。もしも天への資格を持たない者が、かの青色を目にしたならば、たちまち湧き出る涙に凍えてその目は壊れてしまうだろうと言われていた。

 ひつじはたいていの時間、天の庭の縁に座し、透き通る青の瞳で眼下の世界を眺めていた。その目に資格を持つ者が留まれば、青い翼をはばたかせ、かの者のもとを訪れる。そして天へと導いては、また静かに世界を見下ろす。昼も夜もなくずっとそれを繰り返し、ひつじは幾星霜ものあいだ、立派に使者としての役割を果たしてきた。

 あるとき、いつものように国の縁にいたひつじは、西の広大な草原にいた一人の精霊を目に留めた。それは風の眷属のむすめ、風を聞く耳を持つが視力を持たない種族である、風見聞(かぜみきき)の少女だった。少女は風の音を聞きながらじっと天上を見上げていたので、下界を見下ろしていたひつじと目が合ったのだ。

 もちろん、風見聞にひつじの姿を捉えることはできない。だが、ひつじはその少女に目を奪われた。彼女の瞳が自分と同じ、真っ青な深みの色だったからだ。今まで他者の瞳に見たことのないその青色に、ひつじは矢もたてもたまらなくなった。囚われたその瞬間に、青い翼はふるえるようにはばたき、草原へ向かう風の道を真っすぐに降り始めた。

 やがて草原にたどり着き、気づいた少女に声をかけられたとき、ひつじはその目に、生まれて初めての涙を浮かべた。深い喜びの青色をした涙だ。しずくは地へこぼれ落ちた途端に芽吹き、すぐに小さな青い花を咲かせた。その花はとてもいい香りがしたので、光を持たない風見聞は、新しく得られたその香りをとても喜んだ。

 それからのひつじは、少女のそばを片時も離れなかった。昼も夜もなく、風を聞く少女の隣で、ただ風を見上げていた。彼女が聞くさまざまな風景を、かたわらでただ自分の瞳に映していた。見つめる風の向こう、空の高みには時折故郷の影が見えたが、ひつじはそこへ戻りたいとは思わなかった。ひつじは、しあわせだったのだ。

 やがて幾つもの季節が過ぎて、ひつじがその背にある翼のことも忘れかけたころ。雲一つなく晴れ渡ったある朝に、少女のもとへ、どこからともなく翼ある青いさかなが訪れた。驚くひつじの目の前で、さかなは少女をその背に乗せると、ゆらりと優雅に身をひるがえし、天の高みへ飛び去っていった。

 さかなは、役割を放棄したひつじの代わりを担った、新しい天の使者だった。そして青い瞳の風見聞は、長い時間を過ごすあいだに、天への資格を有していたのだった。ひつじは少女の青色に囚われすぎて、その瞳の花と鳥とにまったく気づかなかったのだ。

 そのことに思い至ったひつじは、慌ててさかなの――少女の――あとを追いかけた。どのみち行く先はわかっている、いずれ追いつけるはずだとそう考えた。けれど風を切って進むうちに、ひつじは自分がどこを飛んでいるのか、どう進めば天の庭へたどり着けるのか、だんだんわからなくなってきた。長いこと地上の風を見ていたひつじは、いつのまにか、フィルラルカルクへの道をすっかり見失ってしまっていたのだ。

 ひつじは天へ向かって懸命にはばたいた。もう二度とあの少女にとどかないかもしれないと思うと、全身が引き裂かれるような痛みを覚えて、ぽろぽろと涙がこぼれた。涙は点々と大地に落ちて、うつくしい青色の毒となって固まった。ひつじはがむしゃらに風を切った。ただ最果ての国を目指して、飛んで飛んで飛び続けた。

 天上に揺れる国の影を、ひつじの瞳はずっと捉えていた。けれどどんなに風を漕いで進んでも、それは少しも近づく気配を見せなかった。青い翼が捉える風は、いつまでも天空の青色にはならず、大地に広がる緑色のままだった。空はひつじを拒絶し、清冽に静まり返ったままだった。やがて悲しみの青い空が絶望の闇色に染め抜かれたころ、涙に壊れそうになった瞳ではるか高みを見つめたまま、ひつじは掠れた声で大きく鳴いた。

 ふぃるらるかるく!

 その声があまりに悲しく凍えていたので、近くを吹いていた風は悲鳴をあげる間もなく凍りつき、粉々に砕け散った。ひつじの両の翼には風の亡骸が突き刺さり、うつくしい青い羽根を氷づけにした。それらは互いにぶつかり合って、幾百もの硝子の鈴がいっせいにかき鳴らされたかのように響き渡った。それはあまりにもくるおしい、断末魔の叫び声だった。

 ふぃるらるかるく! ふぃるらるかるく!

 ひつじはふたたび凍え鳴いた。氷りついた羽根はぱりぱりと壊れ落ち、翼は空気を掴むことができなくなった。青いからだは静かに落下しはじめ、残酷なほどに短い時間のうちに、空中から引き剥がされた。

 ひつじはもう、身じろぐことさえしなかった。声をあげることもしなかった。ただ壊れたようにじっと天上を見上げたまま、冷えきった夜の海に沈んでいった。

 やがてそのあとを追うように落ちてきた羽根のかけらは、海面に突き刺さって小さな氷の群島を作った。大陸の最北の岬からさらに北へ行ったところに、癒えないひつじの悲しみをかたどるように、その島々は今もある。



 果てなき青の深みの深み、空の最も高いところに、フィルラルカルクと呼ばれる国がある。



 雲ひとつない青空には、時折その国の影がほの見えるのだという。そしてそんなときには必ず、冷たい海の暗い青色から、ふぃるらるかるく、ふぃるらるかるく、とそれは悲しげに鳴く声が聞こえてくるそうだ。
END.