ある勇者の話
 やあ、いらっしゃい。また、昔話を聞きにきたのかい? いいとも、今度はどの話にしようかな。遊色海の人魚の話は前にしたよね。北の堕天使の話は? それも話したっけ? 『沈む森』の勇者の話は……、それは、まだ? うん、じゃあそれでいこう。世界に並ぶ者のない、とびきりの勇者の話だよ。



 今となっては昔のことだけど、大陸の西のはずれのはずれ、現在のサイタ国とサイナ国のあるあたりに、一つの王国があった。代々強大な魔力を持つ王が統治する国で、その名をオーウェルと言う。伝承によると、『オーウェル』というのは、『最後の』という意味を持つ言葉らしい。最後の王国、つまり、滅びることのない国という意味合いだったんだろうね。

 実際、オーウェルはたいへん豊かで栄えた国だった。今もそうだけれど、あのあたりは北の大陸への通過点で、双方から人や物が流れこんでくる。おまけに海流のおかげで海産物に恵まれているし、東のフィロウ山脈では上質の黒曜石がたくさん採れたらしいからね。

 けれど、今はもう、この国は存在していない。どうしてなくなってしまったのかって? さあねえ。流行り病だとか呪いだとか、いろいろ言われているけれど、詳しいことはわかっていない。わかっているのは、その国の中心部だった場所一帯が、深い森に覆われてしまったということだけさ。そう、サイタ国とサイナ国を隔てる『沈む森』のことだよ。入れば二度と出られないと噂される『魔の森』だ。

 その森がどうして生まれたのか、そこのところもよくわかっていない。ただ、『沈む森』は初めから『魔の森』として存在していたわけじゃないんだ。昔は、『戻りの森』と言われていて、入りこむと必ず元の場所に戻ってしまう森だった。どちらにしろ、通り抜けられないというのは今と変わらないけどね。『沈む森』が『魔の森』と呼ばれるようになったのは、今から百年ほど前のことなんだ。……何があったのかって?

 ちょうどそのころ、サイタ国とサイナ国が、この森を開拓して両国を繋ぐ道を作ろうと考えたんだ。何せ『沈む森』は広大で、しかも通り抜けができないときている。両国は隣同士だっていうのに、互いの国まで行こうと思ったらぐるりと迂回しなければならないからね。

 物の流れの多い場所だから、回り道はたいへんな労力だ。東の山脈は難所が多い危険な道しかなく、馬やロバが通るのは難しい。かと言って海路を利用するにしても、サイハの大渦を避けなければならず、それを知っている海賊たちに襲われる可能性が高かった。もちろん船には護衛がついていたし、国が討伐隊を出すことはあったけれど、護衛が毎回必ず船を守れたわけではなく、何度討伐隊が出されても、海賊が完全に姿を消すことはなかった。

 商人や旅人はもっと安全に旅をしたいと考えたし、サイタ国もサイナ国も、なくならない海賊被害に頭を悩ませていた。そんなこんなで、両国は道作りの計画を立て、たくさんの人と金を集めて準備を進めていった。けれど、いざ作業を始めようってときになって、重大な問題が出てきたんだ。その森の中に、滅んだはずの国の、王家の末裔が暮らしていたことがわかったんだよ。

 末裔と言っても年若い青年が一人きりで、両親はすでに亡く兄弟もいなかった。国民も一人もなく、彼の住処である王城は大半が土に埋もれて苔と葉に覆われていた。国中で一番大きいはずの城がそんな状態だ、ほかの建物なんて残っているはずもない。だけど彼はこう主張した。――この森は自分の国であり、自分の領土である。自分はこの国の王として、木の一本でも勝手に切り倒させるわけにはいかない、と。

 初めのうち、両国は彼の存在を見なかったことにした。両国にとってはオーウェルは滅んで久しい過去の国だし、生き残りも自称国王が一人だけだ。民もないのに土地の所有がどうこうだなんて馬鹿げている、と計画を実行に移そうとした。

 けれど、――それは、彼によってことごとく阻まれた。彼は強大な魔力を持つ、オーウェルの王族の末裔だ。広大な森には隅々まで彼の魔力が満ち、彼が敵と思うものを排除しようと動く。森に入ろうとする者は誰であれ、意志を持つかのようにうごめく植物たちに攻撃された。

 邪魔する彼をどうにかしようと、幾度となく討伐隊が作られたが、ほとんどの者は森に踏み入ることすらできなかった。計画は暗礁に乗り上げ、頭を抱えた両国は、他国の協力も得て彼の首に多額の賞金を懸けることにした。――我々に平穏を得させまいとする、かの『魔王』を倒すことのできた勇者には、莫大な富と名誉を授ける、と言ってね。

 噂を聞いて、腕に覚えのある者たちが、次々に両国に集まっていった。賞金、名声、あるいは自己の掲げる正義のために、彼らは『魔王』を倒しに向かった。ある者は一人で、またある者は他者と組んで、さまざまな者たちがさまざまなやり方で森の奥へと進もうとした。

 もっとも優秀だったのは各地の魔法使いたちで、彼らは魔力と魔法について、そしてそれへの対処の仕方をよく心得ていた。襲いかかる植物たちをやり過ごし、ついに『王城』へたどり着いた者もいた。けれど、『魔王』本人と対峙した者は、その圧倒的なまでの魔力に凍りついた。魔法をよく知るゆえにこそ、目の前の相手に太刀打ちできないことを悟った。彼の前にひれ伏し、仕えようとする者さえいたという話だ。

 『魔王』を倒しに向かう者は、それからも絶えることなく現れた。が、『魔王』の力はあまりにも圧倒的だった。一向に吉報が得られる気配はなく、いつしか誰もが、打倒『魔王』を諦めかけていた。

 そんなときだ。ある日を境に、森の植物たちが急におとなしくなったんだ。誰かが森に立ち入っても、以前のように動きだすことはなく、普通の森の植物のように、ただ風に揺れているばかりだった。足を踏み入れた者たちは不思議に思ったが、突如聞こえてきた『声』によって、その疑問は解けることになる。それは『魔王』の声で、こう言ったんだ。――この森の奥に立ち入るな。入れば、二度とは出られない。

 最初にそれを聞いた者たちは、それを『魔王』の衰えと考えた。魔力を使い果たして、植物を操ることができなくなったのだと、我先にと森の奥へ進んでいった。そして、一人も戻らなかった。次に『声』を聞いた者たちも、同じことを考えた。その次も、その次も同じだった。やがて知人が戻らないことに気づく者が現れるまで、その静かな悲劇は続いた。

 警告を無視して森に呑みこまれた者は、百人とも二百人とも言われている。どうして『魔王』が突然そんな手段を取ったのか、逆に言えば、どうして最初からそうしなかったのか、それはいまだに謎のままだ。……そうだね、もしかしたら、当初は周りが早々に諦めると思っていたのかもしれない。それがいつまでも続くものだから、不毛な戦いに飽きたということかもしれないね。

 こうして『沈む森』は『魔の森』となり、迷いこんだ者は出ることのかなわない場所となった。いつしか森へ立ち入る者も途絶えて、『魔王』の存在は、その圧倒的なまでの魔力とともに伝説となって語られている。その後『魔王』がどうしたのかは、誰も知らない。まあ、百年も経っているんだから、いくら長生きでもまだ生きているってことはないと思うんだけどね。

 ただ、『沈む森』は今も『魔の森』と言われているし、『魔王』の『声』は相変わらず聞こえてくるらしい。植物たちは静かだけれど、傷つけようとすると途端に攻撃してくるそうだ。ついでに、森の奥に立ち入った者が戻ってきたという話も聞かない。……『魔王』ほどの魔力があれば、自分の生死など関係なく、魔法を維持できるのかもしれないね。まったくもって、驚くべき話さ。



 今日の話は、これでおしまいだ。おもしろかったかい? ……うん? 今の話の、どこに勇者が出てきたのかって? 最初に言った通りだよ。並ぶ者のない、とびきりの勇者の話さ。

 『魔王』の国には、もう誰も立ち入らない。踏み入ることもできない。もちろん、攻めこまれることもない。この先も、きっと、ずっとね。……どうだい? すばらしい偉業じゃないか。彼は、たった一人きりで自分の国を守り通した、孤独な勇者だったのさ。
END.