千の雨に沈む
 やあ、いらっしゃい。また、昔話を聞きにきたのかい? いいとも、今度はどの話にしようかな。この間は、『沈む森』の勇者の話をしたんだったよね。今日は……おや、雨が降ってきたみたいだね。そういえば、『雨の海』の話はしていたかな? え? 『雨の海』自体聞いたことがない? ……それじゃあ、『雨の海』の成り立ちについての話をしよう。不思議な力を持った神さまと、その神に守護されていた、小さな国の話をね。



 今となっては昔のことだけど、この大陸の中心部に、ある一つの小国があった。高い山に囲まれた、深い森の中にある国だ。その国は神が治めていたので、その守護のおかげで、たいへん豊かで恵まれていたという。神は偉大で不思議な力を持ち、災害や疫病なども退けたという話で、国は長いこと平和そのものだった。人々はいつも、神への感謝と畏敬の念を持って静かに暮らしていたそうだ。

 神が治めるその国には、神に仕える大勢の神官がいた。彼らは皆十五歳以上の成人になってから、一生を神に捧げる誓いを立てる儀式を経て、神殿に入る。それまでの家族や故郷から離れ、結婚などもせず独り身を通し、生涯を神官として全うするのだという。

 もちろん恋愛もご法度で、神殿内では、その言葉を口に出すことすらはばかられた。もし恋に溺れる神官なんかがいたら、神から重い罰を与えられたことは間違いない。そのうえ、他の神官たちはもとより、国中の人間からそしりを受けることは避けられなかっただろう。

 それでも、偉大な神に仕える神官という職に憧れる者は多かった。神官は常に神によって選ばれるから、なろうとしてなれるものではなかったけれど、稀に准神官が募られたときには、希望者が押し寄せたという。

 その神官の中にも、特別な地位が二つあった。最も神に近く、どちらも一人ずつしか在任しない最高位さ。一つは『神歌紡ぎ』、もう一つは『神声聞き』と呼ばれるものだ。

 『神歌紡ぎ』とは、国の様子や人々の暮らしなどを神に伝えたり、統治の様々について伺いを立てる神官だ。言ってみれば、王の補佐官ってところかな。でもそれだけじゃなく、儀式の際に神への畏敬や平穏への感謝を謳う『謳い』の神官でもあったんだ。その賛美が歌というかたちで行われるために、『神歌紡ぎ』と呼ばれるようになったらしい。

 一方、『神声聞き』のほうは、その名の通り神の声を聞く――というよりは、『聞ける』神官だった。『神声聞き』は他の神官とは違い、生まれた直後から神官として、神殿で育てられる。より特別な存在で、『神歌紡ぎ』がほぼ常に在位であるのに対し、『神声聞き』は長く空位であることもある。神の声を聞くことのできる人間は、稀にしか誕生しなかったからだ。

 神の声は、普通の人間には聞こえない。もちろん、聞こえるようにすることはできるし、神から神官への意思の伝達は、基本的にそうして行われる。けれど、その際には、神の側が常にそのための力を使い続けることが必要なんだ。力のすべてを国の守護に充てられないために、平穏に綻びが生じることもあったらしい。

 だけど『神声聞き』がいる場合は、神から他の者への伝達は『神声聞き』を間に挟んで行われる。神の力はすべて国の守護に充てられるから、『神声聞き』が存在すれば、国はより豊かに栄えたという。

 さて、その時代は、数十年ぶりに現れた『神声聞き』のおかげか、百年に一人と謳われた優秀な『神歌紡ぎ』のおかげか、国中がたいへんに豊かだった。この繁栄は長く続くだろうと人々は噂し合い、『神声聞き』と『神歌紡ぎ』に、それ以上に国を治める偉大な神に、深く感謝した。神もその様子を喜び、二人の神官をたいそう気に入って目をかけていたそうだ。――あろうことか、その二人が恋に落ちたと知るまでは。

 『神官は、一生を神に捧げる誓いを立てて神殿に入る』――それは、定められていた決まりであり、誰もが知っている事実だった。けれど、生まれてすぐに神殿に引き取られる『神声聞き』だけは、その例外だったんだ。神殿の内だけが世界のすべてだった『神声聞き』の少女は、恋というものの存在を知らずに過ごしてきた。自分の内に宿った感情の名も知らず、想いを抑えるすべもまた知らなかった。

 一方で、『神歌紡ぎ』の青年は、『神声聞き』という存在そのものに憧憬の念を抱いていた。『神声聞き』が在位の時代に、自分が『神歌紡ぎ』になれたということは、彼の誇りだった。『神声聞き』の言葉が聞けることを、光栄に思っていたんだ。そして幾度と声をかけられるうちに、話をしていくうちに――いつしか彼の中で、少女の言葉は、神の言葉よりも輝くものになっていった。

 けれどその事実は、神にとっては、最悪の背信だった。最高位の神官が、そろって自分を裏切った――そのことを知るや否や、神は二人に惨い呪いをかけた。それは、一方の苦痛こそが、もう一方の命の源になるという、つがいの呪いだった。一方が死んでしまえば、もう一方も生きてはいられない。生きようとすれば――互いを死なせまいとすれば、互いに苦痛を負わせなければならないという恐ろしい呪いだ。

 そうして神は、二人を即刻自分の国から叩き出した。それでも、激情はほとんど収まらなかった。深い嘆きと激しい怒りは、国を護ろうとする意志を揺らがせた。暗い天候が訪れ、空は重い灰色に閉ざされた。突然のことに驚いた人々は、ことの次第を知って二度驚いた。どうにか神の怒りを鎮めようとしたけれど、神官たちにすらどうにもできなかった。激しい雨と風が、昼も夜もなく何日も続いた。

 長い平穏に慣れた人々は、危機に対応する知恵を忘れ去っていた。彼らは抗うこともできぬまま、次々に雨や土砂に呑まれていった。……神に呪われた二人だけが難から逃れられた、というのは皮肉な話だね。もっとも、生きているからって、幸せだとはかぎらないけどさ。

 その後も嵐はやむことなく、千日もの間続いた。ようやく空に晴れ間ができたころには、国はもう跡形もなく、水の底に沈んでしまっていた。その場所には巨大な湖ができ、今では『雨の海』と呼ばれているそうだ。



 これで今日の話はおしまいだ。おもしろかったかい? ……え? そのあと神さまはどうしたのかって? さあねぇ。すっかり人間に愛想を尽かしたか、うっかり国を沈めてしまったことを後悔して、引きこもったんじゃないのかな。そうでなければ……、そうだね、昔のことは水に流して、案外どこかでまた国を守護しているかもしれないよ。たとえば、この国とか? ……。そういえば、なんだか雨が激しくなってきたみたいだけど……。
END.