箱庭の雨
雨音が、ゆっくりと暗い世界を満たしていく。
――ザー…… ザー……
次第に大きくなるその音を聞きながら、僕はぼんやりと空を見上げた。
視線の先に広がるのは、一面の、灰色。
「アイ」
小さく君に呼びかけて、僕は、ほんの少し笑ってみせた。いつものベンチで、僕の隣に腰かけたまま、君は静かに眠っている。
「君の色、見えなくなっちゃったね」
答えなんて、返るはずもない。わかっていたけれど、言葉を続けずにいられなかった。
――藍。
当たり前のようにそこにあって、何の疑いもなく、ずっとそこにあり続けると思っていた、空の一番深い青色。
「アイ」
動かない君にささやいて、そっと、白い頬に触れる。やわらかなその肌は、まだ、ほのかに温かいような気がした。
「どうして、かなぁ……。もっと、たくさん、言いたいことがあったはずなのに……」
君は、もう、何も聞けない。何も聞こえない。もう二度と、目を覚ますことも――。
わかっては、いた。覚悟していたことだった。
それなのに、どうしてだろう。
まだ、君が、ここにいるような気がした。
まだ、僕の声を、聞いてくれている気がした。いや、そう信じたかった。
「ねぇ、アイ」
そう、だ。
伝えたかったことが、あるんだ。
何度も、何度も言おうとして。でも、結局、言うことができなかった、大切なこと。
「……みんな、君のことが大好きだったよ」
僕は、ふるえる腕で、そっと君の肩を抱いた。眠り続ける君の、長い黒髪に頬を寄せる。
「でも、僕は、それ以上に――」
君の表情は、なんだか、悲しそうに見えた。
まるで、泣いているかのようだった。
君にそんな顔をさせないために、僕は、君の隣にい続けることを選んだのに。
――当たり前のようにそこにいて、何の疑いもなく、ずっと一緒にいられると思っていた、かけがえのない存在。
ほろり、と。
涙が、こぼれて落ちた。
雨音が、やまない。
鳴り響く終焉の音に、世界は、じわじわと侵されていく。
僕らが終わり始めたあの日、今と同じようにこのベンチに座って、君は晴れ渡った空を見つめていた。
あの藍色の向こうへ、人は最後に昇っていくのだと。いつか聞いた話をつぶやいて、それから、寂しそうに微笑んだ。
僕は、掠れた声で、君の名を呼んだ。
訊ねる。
ねぇ、
君と同じところに、僕は、行けるかな……?
*****
夕日に染まった空が、目前に迫った夜を告げている。風はすっかりとどこおり、緑のざわめく音も聞こえなくなった。
ベンチに並んで腰かけたまま、僕らは、しばらく口を開かなかった。
沈黙を埋めるように、遠く、小さく、雨の音。
あたりが、少し暗くなる。雲の向こうに隠れた太陽に視線を向けて、それから、僕は横に座る少女を見やった。彼女は沈んだ表情で、ひざの上に置いた自分の手を、じっと見つめている。
公園を模して造られたというホールには、今ではすっかり伸びすぎてしまった芝や、アオキやツツジといった低木が植えられている。それらの緑の周りには、ベンチもいくつか置かれていた。
僕らは、いつも同じベンチに座って時を過ごしていた。
ぼんやりと、空を見上げて。
とりとめのない話ばかり、続けていた。
あれから、もう、どのくらい経ったのだろう。ここに――この施設に、彼女と僕、二人きりになってから。
「雨、やまないね」
ぽつりと、彼女がつぶやいた。
「そうだね」
小さく頷いて、僕はかすかに笑った。
「もう、やまないだろうね。思ったより、早かったかな」
「ミツキ」
彼女は不安げな声音で、僕の名を呼んだ。
――心配しているのは、僕のこと。
決して、彼女自身のことではない。それが、僕にはつらかった。
「……仕方ない、よ」
ベンチの背もたれに体重をかけ、僕は顔を上に向けた。目に入るのは、広い、空という名の映像データだ。
「遅かれ早かれ、こうなることは、わかっていたんだ。みんながいなくなったときから、ずっと」
ドームに映し出される空の映像は、ランダムで選択され、再生される。数十種類はあるはずだけれど、最近はずっと同じ映像ばかり繰り返されていた。
もう何日も満ちることを忘れている三日月が、今日もほんのりと白く浮かんでいる。次第に色味を失っていく、僕らが慣れ親しんだ空。当たり前のようにそこにあって、何の疑いもなく、ずっとそこにあり続けると思っていた風景。
それが今、力尽きようとしている。
空だけではない。この施設のすべてが、今にも息絶えようとしていた。電力供給機関の不調はどうにもできないレベルに達していたし、それにつられるように、空調や上水循環システムも不具合を繰り返している。
そして、それは、僕らの存在そのものの終わりも示していた。
施設の外は、汚染のために、とても人が生きていける環境ではない。この施設が機能しなくなれば、そのまま、ここが僕らの墓場となる運命だった。
思い出す。
僕の分だと言われて、渡された、真っ白なカプセル。
『すべて』を、終わらせるための、薬――。
でも、僕はそれを呑まなかった。
僕だけが、それを呑まなかった。そして、みんないなくなって、僕ら二人だけが残された。
この施設は、もともと、遺伝子の研究をするための場所だった。
環境汚染により異常をきたした遺伝子は、次世代へと繋がる――子孫を残す――機能を失いつつあった。人間を含むさまざまな動物、そして植物にも、その影響は広がっていた。その遺伝子を研究することで、どうにか正常な方向へ導けないか――そんな研究は、世界中のいたるところで行われていたらしい。
僕は、ここで、その研究に参加していた。正式に在籍はしていなかったけれど、周りの研究員はみんないい人だったし、待遇は良かったと思う。子供のいない人たちばかりだったから、もしかしたら、僕のことを自分の子供のように思っていたのかもしれない。――いや、実際、そうだったのかもしれない。
なんにせよ、僕は、可愛がられていたのだと思う。そうでなければ、彼女がここに来ることもなかっただろうし、僕が今、こうして彼女の隣にいることもなかっただろう。
言い出したのが誰だったのか、詳しいことは知らない。けれど、彼女を迎え入れた理由は、僕に友達を作るため、だったようだ。
『今日から、この子が、君の友達だよ』
初めて彼女を紹介されたときに言われた、そんな言葉を思い出す。
彼女のようなヒューマノイドは、もともと、そのために生み出された存在だった。人間の代わりとしての、けれど本当の人間のように人間らしい存在。
初めて出会ったのは、僕が十三歳のときだ。
そのときの彼女は、まだ生まれたばかりで、表情も動作もぎこちなく、話し方もほとんど抑揚がなかった。
けれど、いろいろな人と話したり、さまざまなことを経験したりするうちに、彼女はどんどん変わっていった。最初はあまり変化のなかった表情が、次第に豊かに動くようになり、笑うようになり、時には機嫌を損ねたり、慌てたりするようにもなった。
僕は、いつしか、彼女と会うことが毎日楽しみになっていた。
彼女と話したり、笑ったり、たまに思わぬことをしてしまって、二人一緒に叱られたり。そんな日々が、たまらなく楽しかった。彼女と過ごす時間は、まるで宝物のように、きらきらと輝いていた。
みんなが眠りについて、この広い施設で、二人きりで残されても。彼女と一緒にいられるだけで、僕は、まだ笑うことができた。生きることを悲しまずにいられた。
でも、それも、もうすぐ終わる。
彼女が身体の不調を訴えたのは、十日ほど前のことだった。平衡感覚が保てなくなり、歩くことはおろか、一人では立っていることさえできなくなったのだ。
そのとき、彼女はすでに、自分の終わりを覚悟していたのだと思う。自由に動けなくなった自分の居場所として、この『公園』を選んだのは、たぶん――自分の名前と同じ色をした、空を見ていたかったのだろう。彼女は、空を由来にした自分の名前を、とても気に入っていた。
もしかしたら、空は綺麗だと、ことあるごとに僕が言っていたからかもしれない。
別に、自分が特別だとうぬぼれているわけではない。僕の存在は、彼女にとって、この施設にいた何人もの人間のうちの一人、という認識でしかないだろう。それくらいのことはわかっていた。
それでも、一番多くの時間を共に過ごしたのは僕だ。僕の言葉が、行動が、彼女の人格形成や嗜好に影響していることは、間違いなかった。
僕は、空が好きだった。
よく、この『公園』で空を見上げていた。
外の世界の映像データはいくつかあったけれど、実際にその場所にいるかのように見ることができるのは、この場所の空だけだったからかもしれない。
僕は、外の世界を知らない。
この施設で生まれ、この施設から一歩も外に出ることなく生きてきた。
空、太陽、月と星。海、森、草原を渡る風、鳥、魚、獣、雨に雪――。何もかもすべて、記録されたデータでしか知らない。
外の世界に、あこがれることもあった。
『公園』のベンチに座って、ぼんやりと夜空を見上げて。流れる星の映像に、本当の空を知りたいと、願いをかけたこともあった。
でも、――叶わなかった。
僕は、外へ出ることを許されなかった。ここには外の様子がわかる窓のようなものもなく、そもそもどうすれば外に出られるのか、その経路すら僕は知らなかった。
だから、思っていた。
今は無理でも、いつかきっと、外の世界に行ってみたい、と。
ここでの研究が進めば、遺伝子の問題が解決すれば、出られるようになるかもしれない。そう思って、研究の手伝いを申し出た。勉強して、少しずつ周りの話についていけるようになって。大したものではないけれど、仕事を任せてもらえるようにもなって――。
そんな生活が、何年続いただろう。長かったような気もするし、短かったような気もする。研究は遅々として進まないようだったけれど、自分もその研究に携わっているという事実が、少しだけ気持ちを明るくさせた。
ただぼんやりと結果を待つだけで、何もしないでいるよりも、きっと進んでいる。きっと、僅かでも早く、結果を出せる。そう信じられた。
僕は、未来を信じていた。
何も、疑っていなかった。
こんなふうに終わりが来るなんて、考えてもいなかった。
みんなが静かに眠りについて、一人きりで残されたあと。この施設の中を歩き回ってみた僕は、入ってはいけないと言われていたドアの、ロックが外れていることに気がついた。
それは、誰かが、眠る前に意図的に開けていったのだろう。
でも、そのときの僕は、ただの偶然だと思った。何も知らずに、そのドアを開けた。その部屋――中央制御室――に足を踏み入れ、眠っていたディスプレイを目覚めさせた。
目に留まったのは、画面の片隅にあった、黒い長方形。それは映像や音声データのプレイヤーで、施設の外に設置しているカメラから、今現在の様子が送られて映し出されるのだと、表示されていた。
けれど、胸を躍らせながらそれを再生した僕の目に映ったのは、映像で見知っていた青い空ではなかった。
そこには、灰色に閉ざされた、暗い空が広がっていた。
今日は、曇りなんだ――そう思いながらも、僕は、不安を抑えきれなかった。もしかしたら、という気持ちが、心の片隅でうごめいていた。気がつけば検索してしまっていた過去の記録は、断片的ではあるものの、過去五年分にわたっていて――そして、そのどれもが、白と黒と灰色に埋め尽くされていた。
僕は、しばらく、呆然と立ち尽くしていた。
どうして、気づかなかったのだろう。
僕の焦がれていた、青い空。彼女の双眸と同じ、深い青色。
汚染が進み、住むことさえできなくなった外の世界に、そんなものは、もうどこにもなかったのだ。
今だから、思う。
外に出られないようにしていたのは、きっと、あの世界を見せたくなかったからだろう。
――ここの外には、美しい世界がある。果てしなく、どこまでも青い空が広がっている。
そう信じていれば、『自分たちのように』、絶望を知らずに済む。生きる目的を失って、ただ存在し続けるだけの日々に、押しつぶされずに済む。そんなふうに、考えたのだろう。
『今日から、この子が、君の友達だよ』
彼女を初めて連れてきたとき、そう言ってにこにこしていた、みんなの笑顔が脳裏に浮かぶ。
やさしい人たちだったと、思う。
悲しいくらいに、きっと。
ここでの僕の存在は特殊だったから、確かに、対等にものを言ったり、同じ目線で話したりできる相手はいなかった。それにしたって、ただの研究対象でしかない――研究の過程で偶然生まれただけの――僕に、そこまでする必要なんてなかったはずだ。
思い出す。
僕の分だと言われて、渡された、真っ白なカプセル。
でも、本当は、そんなことを望んではいなかったのかもしれない。
誰もいなくなったあとになって、僕は、初めて本当のことを知った。
中央制御室で見た、本当の空の様子。データベースに記録されていた、汚染の状況。数値と観測によって導かれた、絶望的な未来。
たとえこのまま研究を続け、それが実ったとしても、外の世界で生きられるようになるまでには、あまりにも長い年月が必要で。そして、そんな長期間に耐えられるほどの食糧や生活物資なんて、あるはずもなくて――。
きっと、どうしようもなかった。
どうすることもできなかった。
こんな道を選ぶことしか、できなかった。
もしかしたら、初めから、こうなってしまうことがわかっていたのかもしれない。それでも、誰も、無理矢理に僕を連れていこうとはしなかった。
僕に、選ぶ権利をくれた。
自分の、未来を。
自身の、――生き方を。
だから、僕は、選んだのだ。たとえ残された時間が僅かでも、最後まで、彼女と共に存在することを。
ヒューマノイドの存在意義は、『人間のために』存在することだ。
人間のために、人間らしく振る舞うことだ。
もし、そこに対象となる人間がいなければ、ヒューマノイドは存在意義を失ってしまう。意義を失った機械は、自身の機能を停止することになる。言ってみれば、そうするようにプログラムされているのだ。
もし、僕がいなくなったら。
この施設の中に、誰もいなくなって、彼女一人になってしまったら。
彼女は、きっと、自分を止めてしまうだろう。それは、想像ではなく、確信だった。
僕は、……それが、嫌だった。
彼女に、自身を不必要なものだなんて、思ってほしくなかった。
彼女がいてくれたから、僕の毎日は、輝いていた。
彼女が笑ってくれるから、僕も、心から笑うことができた。
誰にもわからないかもしれない。彼女にも、わからないだろう。それでも、僕にとって、彼女の存在は、僕自身の一部であるかのように、かけがえのないものだった。
それに――みんなが眠ってしまったことを知れば、きっと、彼女は悲しむだろう。
彼女が機械であることや、プログラムなんて関係なく、一人になってしまったら、きっと寂しいだろう。そう思った。
だから、僕は、生き残る道を選んだ。
彼女を、一人にさせないために。
もう少しだけ。僕と彼女のどちらかが、抗えない眠りについてしまうまで。それまでは、彼女と一緒に過ごしたかった。彼女に、笑っていてほしかった。
この想いに意味がないなんて、誰に言えるというのだろう。
機械だからとか、人間だからとか。愚かだとか、間違いだとか、『一般的』な感覚では、言うのかもしれない。こんなふうに滅びゆく世界でなければ、非難されたのかもしれない。
けれど、すべてが終わろうとしていてもなお、人は誰かを想う気持ちを失くさなかった。何も残らないとか、残せないとか、わかっていても、想いは消えていかなかった。
人は、人を想う。
世界がどうなろうとも、生命がどうなろうとも、大切な誰かを想う。
ただ、それと同じように、僕は、君を想った。
僕は、君が、大好きで。ほんとうに、大好きで、大切で。君にとっても、そうであってくれれば、なんて叶わない願いを抱いて。君の笑顔に嬉しくなって、苦しくなって。そんな日々を繰り返して、それでも僕は幸せだったのだ。
そう、だ。
幸せ、だった。
それ以上の、生きる目的なんて、どこにあるというのだろう。それ以上の意味なんて、どこにあったというのだろう。
こんな想いをくれた君に、幸せをくれた君に、ただ、幸せでいてほしいと願う。それが愚かだなんて、間違いだなんて、誰に言えるというのだろう。
もしかしたら、みんなも、そんな僕の気持ちに気づいていたのかもしれなかった。だからこそ、先に行くことを選んだのかもしれない。限られた物資のすべてを、僕に残すために。
最後の薬を僕にくれた人の、なつかしい皺んだ手を思い起こして、ほんの少し、目頭が熱くなった。
ああ、そうだ。僕やアイに名前をつけてくれたのは、あの人だった。
アイは、藍。よく晴れた空の、一番深い青色を表す名前。
ミツキは、光季。すでに失われてしまった、季節という事象の、美しさを表す名前。
「アイ」
「……なに?」
小さな声でその名を呼ぶと、ややあって、短く返答があった。
彼女の反応速度は、だいぶ遅くなってきていた。きっと、もうすぐ、その反応自体なくなってしまうだろう。彼女は、ベンチに座りこんだまま、もう身体の向きを変えることもできなくなっていた。耳はまだ聞こえていたけれど、目の機能もほとんど失われているようだった。
「うん、あのさ。……みんな……、先に行っちゃったけど……、僕らを無視して、置いていったわけじゃないんだ。大事に思ってくれていたし、君のことも、きっと大好きだったと思うよ」
そうだ。僕だけじゃない。彼女のことだって、みんな想ってくれていた。
そのことが、決して当たり前ではないということを、さまざまなデータを見てきた僕は知っている。
どんなに人間そっくりに見えても、彼女は、ヒューマノイドだ。人間ではない。けれど、みんなの態度は、機械だからと区別するようなものではなかった。
僕に対して、そうだったように。心から、仲間として――『家族』として、接してくれていた。
そのことを、伝えておきたかった。
伝えなければならない気がした。
「……うん」
彼女が、かすかに頷いた気がした。
髪の隙間から見える、深い空色の瞳が、かすかに泣いているようにも見えて、僕はたまらずに口を開いた。
「あの、さ……、」
それなのに、どうしてだろう。
息が、詰まる。胸が苦しい。
今までだって、時間はあったはずなのに。今になって――何もかも終わりかけた今になって、君に言いたいことが、あふれてくる。
何から、口にすればいいのか。
わからなくて、苦しくなる。
――ザー…… ザー……
空調に交じって聞こえてくるノイズが、次第に、大きくなってきていた。
近づいてくる終焉の足音であるそれを、まるで雨のようだと、最初に言い出したのは僕だった。
いつだったか、記録映像で見たことのある、雨。その不思議な光景を、初めて見たときの感動を、まだ覚えている。
――箱庭のようなこの場所に、降るはずのない雨が降る。
たとえ、終わりを告げるノイズでも。そんなふうに感じられたら、少しだけ、穏やかな気持ちでいられる気がした。終焉へではなく、美しかった外の世界へ、近づいていけるような気がした。
気のせいだとはわかっていたけれど、それでも、そう思いたかったのだ。
「みつき」
ぽつりと、彼女が僕の名を呼んだ。
掠れた声で、ささやかに。
やわらかく、ささやくように。
「アイ?」
僕の声は、届いていたのか、どうか。
「……あめ、……やまない、ね……」
途切れ途切れに、つぶやいて。
それきり、彼女は、動かなくなった。
真上に広がる空の映像も、いつしか、灰色のノイズに埋め尽くされていた。
*****
雨音が、やまない。
鳴り響く終焉の音に、世界は、じわじわと侵されていく。
この場所に二人きりになったあの日、今と同じようにこのベンチに座って、君は晴れ渡った空を見つめていた。
あの藍色の向こうへ、人は最後に昇っていくのだと。いつか聞いた話をつぶやいて、それから、寂しそうに微笑んだ。
――わたしは、人間じゃないから。きっと、みんなと同じところへは、行けないね……。
僕は、掠れた声で、君の名を呼んだ。
訊ねる。
ねぇ、
君と同じところに、僕は、行けるかな……?
……行けるかもしれない。
行けないかもしれない。
わからない。
でも、可能性がないわけじゃない。
君と同じように、人の手によって作り出された僕だから。君と同じところに行ける可能性は、きっと、他の誰より高いだろう。
だから、行けるといい。君に、また会えるといい。
そうすれば、きっと。言えなかったこの想いも、今度こそ、伝えることができるだろう。
「アイ」
小さく君に呼びかけて、僕は、ほんの少し笑みを浮かべた。やまない雨の響きの中で、君は静かに眠っている。
「君のことが、大好きだよ。これからも、ずっと――」
僕は、服の間から、小さな包みを取り出した。
そっと開いて、少しの間、それを眺める。
僕の分だと言われて、渡された、真っ白なカプセル。
指の先でつまみ上げ、僕は、それを口の中に放りこむ。そして、味気ないその薬を呑みこんだ。
叶わなかった未来のすべてを、ここから新しく始めるために。
END.
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