歩いてゆく靴のはなし
 広い草原の中に、ぽつんとひとすじ伸びる道を、
 一足の古い靴が歩いていました。


 靴は、もう随分と長いこと歩き続けてきました。
 底はすり減ってすっかり平らになっていましたし、
 いろいろな動物に引っかかれたり噛みつかれたりしたせいか、
 あちこちに穴が空いています。

 それでも、靴は歩くことをやめません。
 雨の日は重くなったからだを引きずって、
 風の日は転がらないようにからだを低くして、
 休むことなく歩き続けます。


「ねえ、あなたはどうしてあるいているの?」

 歩き続ける靴に、話しかけるものがありました。
 旅の途中に、たまたま靴の上で綿毛を休めた、たんぽぽの種でした。

「約束だからだよ」

 足を休めぬままに、靴が答えました。

「やくそくって、だれとの?」
「決まってるだろう? 僕のご主人さ」
「でも、あなたのそばにはだれもいないよ。そのひとはどこにいるの?」
「……遠い、ところだよ。たぶん、もう会うことはないだろうね」

 靴の言葉に、たんぽぽの種は綿毛を傾げました。

 一足の靴が主人と会えなくなるということが、
 どういう意味を持つのかを知っていたからです。

「すてられたのに、いうことをきいているの?」
「違うよ」

 靴は少しだけ、機嫌を損ねたようでした。

「捨てられてなんかいないし、命令されたわけでもない。
 言っただろう? これは、約束なんだよ」
「……ふうん?」

 なおも怪訝そうなたんぽぽの種に、
 靴はからだのあちこちから空気を吹き出して、
 一人言のようにひっそりと言葉を続けました。

「……ご主人は、僕をとても大事にしてくれていたんだ。
 僕の他に靴を持つこともなく、歩くときはいつも一緒だった。
 初めて会ったときに、ご主人は、靴は僕だけって約束してくれたし、
 僕は、ご主人のためだけに歩くって約束したからね。

 僕たちは、ちょっとした放浪を続けていた。
 ご主人は生まれ育った場所で迫害されて、
 それで自分を受け入れてくれる場所を探していたんだよ。

 だけど、なかなか見つからなくて、
 そのうちに疲れてしまったんだろう、
 ご主人はだんだん歩けなくなっていった。

 最後の日、ご主人は、僕をきれいにそろえてこう言った。

 『ごめんね、もう歩けそうにないんだ。
  きみとはここでお別れだよ。
  私のことは忘れて構わないから、
  これからは、きみの好きなようにしたらいい。
  今まで、本当にありがとう』

 そうして、さよならって微笑んで、飛び立っていったんだ。

 そのとき、突然、僕にはすべてがわかってしまった。
 この世界にご主人を受け入れてくれる場所なんてないってことを、
 そして、ご主人はそのことに気がついていたんだってことも。
 そう、ご主人は、本当は歩く必要なんてなかった。
 望みさえすれば、いつでも飛び立つことができたんだ。

 たぶん、ご主人は迷っていたんだと思う。
 もしかしたら、その場所があるかもしれないって。
 あるかもしれないって可能性があるかぎり、
 歩き続けなければならないんじゃないかって。

 だって、……僕がいたから。

 歩くための存在がここにあるんだから、
 自分は歩かなければならないんじゃないかって。
 そうでなければ、歩くための存在である僕が、
 どうしてここにいるのか、その意味がわからなくなってしまうから。

 そういう、自身に枷を嵌めるような思いが、
 ご主人を余計に追いつめていったんじゃないかなって、僕は思う。
 言ってみれば、僕の存在は、
 ご主人を迫害するものの一つに過ぎなかったんだ。

 だから僕は、この存在のすべてを懸けて、
 ご主人の探してた場所を、自分だけでも探し続けることに決めた。
 そうして世界中を探し回って、それでもその場所が見つからなければ、
 ご主人が正しかったことが証明できるだろう?」

 そこまで言うと、靴は黙りこみました。
 話を聞いていたたんぽぽの種は、ふうん、ともう一度つぶやいて、
 白い綿毛を揺らしました。
 心地よい風が吹いていました。

「そろそろ、いかなきゃね」

 よく晴れた空を見上げて、たんぽぽの種は、嬉しそうに言いました。
 それから、ふと思いついたように、靴に訊ねました。

「あなたはこれからも、ずっとあるきつづけるの?」
「もちろんだよ。約束だからね」
「じゃあそのうち、はなをさかせたわたしとあえるかもしれないね」

 そのときはよろしくね、と言ったかと思うと、
 たんぽぽの種は、ふわりと舞い上がりました。
 そうして、風に乗ってどこかへと飛び去っていきました。

 靴は歩く速度を緩めることなく、それを見送りました。
 見えなくなっていく姿を、見送っていました。

「……ずっと、歩き続ける、よ」

 やがてぽつりと、靴はつぶやきました。
 靴は、主人の正しさを証明するために歩いていました。
 歩いて歩いて、世界中を歩き尽くせば、それができると思っていました。
 主人が飛び立っていったのは正しかったのだと、
 だから自分に謝る必要などなかったのだと、証明できると思っていました。
 主人には初めから自分など必要なかったのだと、
 自分自身に、そう認めさせることができると思っていました。

「ご主人は、正しかったんだ」

 靴はほんの少しだけ、歩く速度を落としました。
 靴は、すべてをわかってしまっていました。
 主人の正しさを証明するということが、
 靴自身の存在を否定することにつながるのだということも。

「……だって僕は、約束したんだ……」

 遠い昔、靴は主人のためだけに歩くと約束をしました。
 忘れてもいいと言われても、その約束を守り続けていました。

 それは、気づかずに主人を追いつめてしまった自分への、
 ただひとつの罰であったのかもしれません。


 広い草原の中に、ぽつんとひとすじ伸びる道を、
 一足の古い靴が歩いていました。


 どこまでもどこまでも、歩いてゆきました。
END.