真水の魚
 拝啓――


 君にこうして手紙を書くのも、十八年ぶりになるのかと思うと、とても不思議な感じがするよ。あまりに久しぶりすぎて、何から書いていいのか、よくわからないくらいだ。ときどきおかしな文章を書いてしまうかもしれないけれど、そこはどうか大目に見てやってほしい。君がいつこの手紙を読んでくれるか、そもそもここに来てくれるかどうか、それさえわからないけれど――その日が来ると信じて、この手紙を書くことにしたよ。

 この手紙を読んでいる、今の君は元気かな? 私は、……いや、「僕」のほうがいいかな。うん、「君」に書く手紙だから、「僕」で通すことにする。この言い方は、なんだかなつかしくて、少し照れるけどね。あのころの「僕」も、今では「私」として、何とかやっていけている。僕は、元気だよ。

 とは言っても、あのころの「僕」が感じていた違和感は、今の「私」もまだ感じている。周りとのすれ違いは決定的なもので、どうしようもない。それでも、以前と違うのは、今はうまく自分をだませているってことだ。あのころの僕は、自分をだます方法なんて知らなかった。君に相談でもしていたら、もしかしたら知ることができたのかもしれないけれど……君の手紙を読んで、そう思ったよ。

 そう、手紙。僕の「遺書」への返事、ありがとう。正直言って、君が僕の手紙を読んでくれたかどうか、それさえ疑問だったんだ。あのときでさえ、もう長いことここには来ていなかったし、君がこの場所を覚えてくれているかどうかも、わからなかったから。それに、たとえ読んでくれたとしても、あのとき僕が残した「遺書」はあまりにもひどかったから、君は怒って破り捨てるんじゃないかと思っていたんだよ。……いや、ここに残っていないということは、実際に破り捨てられたのかもしれないけど。

 それでも、君はこうして返事を書いて残しておいてくれた。僕は、それがとても嬉しいんだ。内容は、かなりきつかったけど……。でも、嬉しい。君が、僕を理解しようとしてくれていたことが、よくわかったから。だから、僕もこうしてまた手紙を書くことにした。君に、ありがとうって伝えるために。

 本当は、直接会って、君に伝えられたらよかったと思う。でも、事故の話を聞かなければ、たぶん僕は、君やあのころのことを思い出すこともなかっただろうし、この場所に来ることもなかっただろう。そう考えると、皮肉なものだね。何も伝えることができなくなってから、伝えたいことができるなんて。……あのとき「遺書」を書いた僕を置いて、君が行ってしまうなんて。

 僕の「遺書」を読んだ君も、こんなやるせなさを感じたのだろうか。そう思ったら、申し訳ない気持ちになった。もし、今後またあのときのような暗がりを抱えこむことがあったとしても、二度とあんな手紙なんか書かない。そう思うよ。

 もっとも、今だからこんなふうに言えるけど、あのときの僕には、あんな手紙を書いておくのが精一杯だった。君に何か、君にだけは何か言わなくちゃとあせっていたんだ。どうしてそう思ったのか、今ではもう、よくわからない。でも、あのときの僕のあせりも、もちろん正しくはなかったけれど、すべてが間違いだったわけではなかったのだと思う。だって君は、あの手紙に書かれている僕のことを、認めてくれたから。

 あの手紙に、僕は海の話を書いたよね。広い世界とか社会とか、そういう意味で使われる海だ。子供のうちは、家庭や近所、学校の中のことくらいしか知らないけれど、成長するにつれて、もっと広く、大きな世界を知っていくことになる。それまで見ていた世界がいかに狭く小さいものだったかを知って、大きくなった子供たちは、思いきり泳ぎ回れる大海へと飛び出していく。

 でも、僕は、その海にうまくなじめなかった。それまで自分が見ていた、狭くて小さい世界が好きだった。優しさや無邪気さ、純粋さや、真っすぐな想いが好きだった。そんな僕の大切なものたちが、海の塩気に侵されて、少しずつひからびていくような気がしてならなかったんだ。

 昔から、僕はよく、「普通」になれって言われていた。普通の人はそんなことはしない、普通の人はそんなことは言わない、普通の人はそんな考え方はしない、子供のころからそんなふうに言われてばかりいた。だから僕は、いつしか自分は異常なんだと思うようになっていた。普通の人ができるようなことができないのも、広い海になじむことができないのも、すべて僕が「異常」だからだって思っていたんだ。

 でも、誰もそれを認めてはくれなかった。僕は「普通」なんだって、だから「普通」の人と同じようにできるはずだって言われ続けた。どうしたらいいのか、わからなかった。「普通の人と違う」と言われるのに、同じ口から「普通」だと言われる。意味がわからなかった。聞いてみても、誰も答えてくれなかった。普通の人はそんなことは言わない、と返ってくるのがせいぜいだった。

 出口の見えない迷路の中で、ようやくぼんやりとわかったのは、海には塩が満ちているのだということだった。その「普通」という名の塩が、僕にとっては毒でしかないということだった。そう、……僕は、異常でなければ生きられなかった。「異常」という枠の中でだけ、僕には呼吸することが許された。「普通」になんてなれなかった。どうすればそうなれるのかも、わからなかった。この広い大海で、僕は、異質な淡水魚だったんだ。いや、今でもそうだし、この先もずっとそうだろう。

 でも、君は僕を許してくれた。僕という「異常」を、否定しながらも許してくれた。それだけで、僕は救われたよ。本当に、……本当に、ありがとう。それだけは伝えたかったんだ。君がいつこの手紙を読んでくれるか、そもそもここに来てくれるかどうか、それさえわからないけれど。

 いつか、「僕」と同じように生まれ変わった「君」が、ここを訪れるまで。その日が来ると信じて、僕はこの手紙を置いておくよ。
――敬具
 「僕」のたった一人の理解者だった「君」へ
今は「僕」ではない僕より