一通の懺悔
【 半月前 】
 町はずれの森に建つ、小さな家の中でした。
 作業部屋の様子をかすかに浮かび上がらせているのは、扉を開け放した隣室から届く光でした。室内には通気用の小さな窓が二つありましたが、それらは閉ざされたまま、風も光も通していません。あたりの空気は重く澱んでいて、病に侵された者はもちろんのこと、体に何も異常のない者でも、長居をしたくなるような空間ではありませんでした。
 長いこと使われた様子のない部屋でしたが、それでも、きれいに片づいてはいました。大小さまざまな作りつけの棚には、本や鉱石、木片や布袋などが、整然と並べられたまま埃をかぶっています。同じく埃に埋もれた床板には、うっすらと、何らかの模様を描いた塗料の色が残っていました。部屋の中心よりもやや扉に近い位置には、簡素な作りの机が一つ、棚と向かい合うように置かれていました。魔灯具と筆記具だけが載せられていた、その台の上もやはり埃に覆われていました。
 机の手前には一つだけ、背もたれのない四角い椅子があって、今はそこに、一人の人間が座っていました。
 痩せた、中年の男性でした。肌の色は黄色くて、すべてに疲れきってしまったような、沈んだ目をしています。清潔そうな服を着ていましたが、室内に積もっていた塵の膜で、そこかしこが汚れていました。
 黙りこむ彼の前では、もう一つの人影が、その場に立ったまま、両手で持った紙に目を走らせています。見た目は二十代半ばほどの青年で、セントゥール=ノーリスと名乗る、旅の魔法人形でした。
 紙に書かれていた文章に最後まで目を通すと、セントゥールは困ったような顔をして、しばらくその文面を見つめていました。それから、その紙を元の折り目どおりにたたんで、目の前の人物へ視線を移しました。
「……この手紙を、渡してきてほしいと……?」
 確認のようなつぶやきに、彼は黙ったまま、ゆっくりと頷きました。
 セントゥールはますます困った顔をして、再度口を開きました。
「けれど、これでは……」
「頼む」
 短い遮りの声に、セントゥールは続ける声を呑みこみました。自分を見上げる彼の瞳が、とても真剣で、迷いのない色をしていたからです。
「……お願いだ。あなただから、頼むんだ。あなたが――人形、だから」
 言葉の最後で、彼は一瞬だけ声を詰まらせ、うつむきました。
 セントゥールはかすかに表情を翳らせて、それからゆっくりと部屋の中を見回しました。そこは、彼が長いこと閉ざしていた――閉ざしたままにしようとしていた、彼のすべてとも言える場所でした。
「……もう一つだけ、聞かせてください」
 棚に並んだ魔法書をじっと見つめて、セントゥールは、静かな声で彼に訊ねました。
「あなたは、どうして製造師をやめてしまったのですか?」
 ――人形製造師。
 魔法人形の、『体』だけを生み出す者――それが、彼のもともとの職業でした。
 製造師は、多くの魔法知識を有していなければなることができず、そのため、魔術師としても優れている者が大半です。同系統の職である人形師や創造師とは違い、蔑視されるようなこともほとんどありません。名誉ある職とされることもあり、そう簡単に手放せる仕事ではないはずでした。
 セントゥールの問いかけに、彼は苦しげに顔をゆがめました。答えようと口を開いて、けれど、ゆっくりとそれを閉ざします。心の内側にあるものを、どう表せばいいのかわからないといった様子でした。
「……、愛せるはずが、ないんだ」
 やがてぽつりとつぶやかれた言葉に、セントゥールは、怪訝そうに眉根を寄せました。彼は少時の沈黙ののち、一度だけ小さく溜息をつき、何かを否定するかのように首を横に振りました。
「私は、彼女のことを何も知らない。名前は何というのかも、どんな顔や声をしているのかも……好きなものも嫌いなものも、大切なものも、――何を感じて、思って、考えて、どんなふうに生きてきたのかも。何も、知らないんだ。それなのに……、おかしいだろう?」
 その口調は訊ねるものでありながら、声に宿る響きは断定でした。
 彼は再び、セントゥールを見上げました。それから、その黄色い顔に、かすかな笑みを浮かべました。
「私に、彼女を愛せるはずがない。そのはずがないんだ……、知らないものを愛することなんて、できるはずがない。それなのに……」
 セントゥールは何も言わず、ただ黙って彼の言葉を聞いていました。彼のまとう空気は、ひどく穏やかな悲しみに満ちていました。ありのままのすべてを受け入れたゆえに、それまでの自分をすべて失ってしまったかのような――それは確かな、喪失の悲しみでした。
「……何も知らない私が、彼女を愛するということは……彼女の人格を無視して、彼女を自分の一部のように扱うということだ。心を持ち、意思を持って生きている一人の人間を、まるで自分に付属しているもののように……。ああ、……こんなことが、許されるはずがない。決して、許されるはずがないんだ……」
 彼は痛みに耐えかねるように、その顔をしかめました。
「血は何も思わない。考えるのは、自分のことだけだ。――血は、誰も愛さない。愛するのは、自分だけだ。そのはずだ。そのはずなんだ……、いや、間違いなく、そうだ……」
 独白のようにつぶやきながら、彼はだんだんと、その視線を下へ落としていきました。セントゥールを――『人形』を、直視するのがつらいとでもいうように。
「彼女のことを知ってから……、私は、怖くてたまらなくなった。自分が愛しているのが何なのか、わからなくなってしまった……。私は、人形を愛しているつもりでいた。その美しい存在を、愛しているのだと思っていた……。けれど、もしかしたら私は……、私が愛していたのは……、……」
 小さな声は、そこで静かに途切れました。
 彼は何度か続きを口にしようとしたのですが、それ以上はもう、言葉にはできないようでした。
「……、そう、ですか」
 セントゥールは彼の心情を察して、小さくそうつぶやきました。
 彼が言おうとしたことは、もうすっかりわかっていました。そして、それこそが自分の問いに対する答えであるのだということも。
「わかりました、……この手紙は、お預かりします。『彼女』に、渡せばいいんですよね」
「ああ、……そうだ。ありがとう……」
 彼はうつむいたまま、ふるえる声でつぶやきました。
 セントゥールはもう一度、部屋の中をぐるりと見回しました。灰色の時間に埋もれた、失われてしまった、彼のすべてが見えました。
 それは、かつて自分がいた場所と、とてもよく似たあたたかさに満ちていました。
「それでは……、僕はこれで、失礼します。無理を聞いていただき、本当に、ありがとうございました」
「いや、感謝するのはこちらのほうだ……。こうして、あなたと会えてよかった。手紙のことをよろしく頼む。それと――」
 彼は一旦言葉を切って、少しの間、ためらうように口を閉ざしました。
「できれば、でかまわない。その手紙を渡したら……、彼女がそれを読んだら……いや、読まれなくてもいいんだ。……どうか、私の家まで、報告に来てもらえないだろうか。彼女が、それにどう反応したかを……、私のことを、……どう言ったかを」
 次第に消え入りそうになっていくその声に、セントゥールは、必ず、と短く答えました。彼はわずかに瞠目し、それからかすかに微笑んで、小さく何度か頷きました。
 そしてそれきり、互いに何も言わぬまま、黙って二人は別れました。
 紅葉の見事な、森の中でのことでした。