博士の休日
[ 2 ]   試作と分解
「――ああ、また失敗だ」
 『実験室』の平らな床には、難解な式と魔法文字とさまざまな線や図形が組み合わされた、『試作品』が置かれている。その中央には、博士が台所から見繕ってきた、パセリの鉢植えの姿があった。――発明が成功していれば、見えなくなっていたはずの。
「そのようですね」
「わくわくするねぇ」
 ささやかに同意すると、博士はいかにも楽しそうに笑った。
「目に見えないものを作り出すというのは、僕にとっては、一番おもしろい発明だね。先日の客人は、なかなかに素敵な依頼をしてくれた。これで、しばらく退屈せずに済みそうだよ」
 博士の発明品の評判は、最近ではずいぶん遠くまで聞こえているようで、いろいろな人がこの『研究所』にやってくるようになった。そのうちの大半は、こういうものを作ってほしい、という依頼を携えてくる人々だ。
 依頼を受けるかどうかは、おもしろそうか否か、という博士独自の基準によって決められる。『先日の客人』の依頼は、どうやら最高におもしろそうだと判断されたらしい。
 たしかに、変わった依頼ではあった。何せ、作ってほしいと言われたものは――。
「『そこに確かに存在するものが、ある条件のときにだけ、存在しないことになる節理』」
 薄い赤紫色の瞳が、きらきらと輝く。博士にとって、『作りがいのあるもの』は、一番の好物だ。
「また新たな構成を考えないといけないな。まず姿を見えなくするところから、と思ったけれど、違う視点から崩していったほうがいいだろうか……」
 さっそく、新たな『試作品』を作ることを考えているらしい。ああでもない、こうでもない、とぶつぶつ独り言をつぶやく姿は、私に言わせれば、とても微笑ましく、心が和むものだった。
 ただ、以前博士本人にそれを言ってみたところ、『君は少々特殊な感覚を持ち合わせているようだ』と怪訝な顔をされたので、その後は心の中で思うだけにとどめておいている。
 やがて、構想が一段落ついたのか、博士は深く息を吐き出した。いまだ楽しげな瞳のままで、傍らに立つ私を見上げる。
「何にせよ、とても骨が折れそうだ。手伝ってくれるかい? イリアスティーリャ」
 私の名を呼ぶ、やわらかな響き。
 この声に、名を呼ばれるのが好きだった。
 ――イリアスティーリャ。
 何も持たなかった私に、博士が与えてくれた、ただ一つの名前。
「ええ。もちろんです、博士」
「ありがとう」
 博士はにこりと微笑むと、『試作品』を指差した。
「それじゃあ、まず、これを取り壊すことにしよう。向こうに回ってくれるかい」
「わかりました」
 私が向かいに移動する間に、細い腕が鉢植えを脇に寄せる。
「よし」
 博士は『試作品』に向き直ると、魔法文字の組みこまれた数式の一つを指でつまんで、ひょいと持ち上げた。
「これをよく見て」
 わずかに発光するその式を、私に示してみせる。
「この式を鏡文字で書いたものがあるから、それの尻尾をすくってくれないか。三連時浸円の黄赤方面だ」
「はい、博士」
 短く答え、言われた通りの場所に、ご所望の式を捜し始める。注意深く、『試作品』に触れないようにしながら。
 博士の作る『作品』は、精密に組み上げられた魔法なので、下手に触れると、とんでもない誤作動を起こすことがある。以前、不注意からそれを起こしてしまった私は、それ以来『作品』の取り扱いには慎重に慎重を重ねるように――博士に言わせると、『石橋を叩いて渡るように』――なった。『そんなに気にしなくても』と言われはするが、安全には代えられない。
 ふいに脳裏をよぎる、あのときの光景。ほんの少しの式の崩れが、連鎖的に引き起こした魔法の暴発。間近で巻きこまれそうになった私をかばって、博士は大怪我を負ってしまったのだ。
 何もできず、ただうろたえるばかりだった私に、青ざめた顔で博士は笑んだ。『すぐに治るから、大丈夫だよ』と。血にまみれ、痛みを堪えながらも、原因である私を責めることはなかった。
『そんなに気に病まないで。せっかくの綺麗な顔が、だいなしだよ』
 私を気遣うようにそう言った、あの痛々しい微笑みが忘れられない。もう二度と、あんな表情をさせたくはなかった。
「ああ、ありました」
 思ったよりも早く、式は見つかった。終わりの部分を見定めてつまみ上げると、次の指示がある。博士の言葉は、いつも的確で、迷いがない。『試作品』の分解作業は、やかんに入れた水が沸くほどの時間で、完了した。
 二、三日――長いときは数ヶ月ほどかけて生み出される、博士の『作品』。
 それが、こうも簡単に分解できてしまうという事実に、私はいつも、幾ばくかの寂寥を感じる。
「……壊れるときは、あっという間ですね」
「この世界にあるものは、大概そんなものだと思うけどねぇ」
 しみじみとつぶやくと、楽しげな笑みが返ってきた。
「失敗作を壊すのに、作り上げたときと同じだけの時間がかかったら、面倒くさくて仕方がないよ。要らないものなら、あっさり壊せたほうが気楽でいい」
「そういうもの、でしょうか」
「うん。僕にとってはね」
 うなずく博士に、そうですか、と短く答える。
 でも、と、やや間を置いて私は口を開いた。
「私は、少し残念に思います。博士の生み出す『作品』は、どれもとても美しいですから」
「……素直だねぇ、君は」
 博士は嬉しそうに微笑んで、さらりと続けてつぶやいた。
「君のそういうところが、僕は大好きだよ」
「は、……」
 一瞬、意識が真っ白になった。
「あ。ああ、あ、ありがとうございます」
 舌を噛みそうになりながらどうにか言葉を返すと、博士は私を見つめたまま、複雑そうな表情をした。
「……そこで照れられると、僕としては反応に困るんだけど」
「え。あ。す、すみません」
「そこで謝られると、また反応に……まぁ、いいよ」
 博士は呆れたように、けれどどこか楽しげに、肩をすくめてみせた。
「とりあえず、休憩といこう。お茶を入れてくれるかい? イリアスティーリャ」
「あ、はい。もちろん」
「いちごの香りのお茶がいいな。きらきら光るやつ」
「わかりました。すぐにお湯を沸かしましょう」