博士の休日
[ 3 ]   講義と回想
「この世界――『夢を見た夢(アナザファンタジア)』――においては」
 赤い薔薇の花が描かれたカップを両手でもてあそびながら、博士はゆっくりと話を始める。
「魔法を完成させるために最も重要なものは、言葉や図形や式なんてものじゃない。『望む力』なんだ」
 私は静かに、その声に耳を傾けた。
 お茶の時間は、いつも、博士の講義の時間だった。
 出会ったころ、右も左もわからなかった私は、この講義でいろいろなことを知ることができた。話の内容はいつも興味深く、飽きることなく聞いていられる。
「もちろん、僕がいつも作っているような魔法式や干渉図形も、重要なものではある。けれど、強い『望み』がなければ、それらはまったく意味をなさない。それらの式や図形を『魔法』として完成させるための原動力、それこそが『望み』なのだからね」
 博士が背にした窓辺から、明るい春の光が降りそそぐ。薄茶の髪は煌めいて、金色に輝いて見えた。
「それに――この世界では、強く望みさえすれば、それだけで『望み』を叶えられる者たちもいる」
「『幻人(フォルファニア)』、ですね」
「その通り」
 私の言葉に、はずんだ調子の声が返る。
「『夢を見た夢』による制約を受けない、自由な存在。『違世界(アナザリィアラ)』に実体を持つ『幻人』たちの『望む力』は、純粋なこの世界の住人である『夢人(トゥルファニア)』のそれとは、質からして大きく異なっている。その不可思議な力の前には、難解な術式など、まさしく意味のない代物さ」
「より強い力、ということですか?」
「『夢人』にとってなら、そうとも言えるね」
 意味ありげな答えを返し、博士はティーカップを傾けた。甘い香りが、ほのかに広がる。
「では、『幻人』にとってなら?」
 ふと浮かんだ疑問を口にすると、――めずらしく、答えが返ってこなかった。
「……?」
 慣れない静けさに不安を覚えて、私は目の前の人の様子を窺う。
 薄い赤紫色の瞳が、何ごとか思い入るように、揺れる紅い色をじっと見つめている。幾度か、瞬きをする。
「『幻人』は、この世界に『存在しないもの』を、『生み出す』ことができる」
 ぽつり、と小さなつぶやきが聞こえた。
「それは、どんなに強い『望み』があっても、『夢人』にはできないことだ……」
 小さな、小さな声。
 まるで、自分自身に、言い聞かせているかのような。
 常と違うその様子に、私は心に不安の雲が広がっていくのを感じた。あたたかな光を遮り、重く立ちこめていく。明るい部屋の中にいるのに、なぜだか、空気が冷たく、よそよそしく感じられた。
「イリアスティーリャ」
 ふいに、博士が顔を上げた。
 赤みを帯びた、見慣れた瞳が、じっと私を見つめて問う。
「君の『望み』は何だい?」
「……望み……? 私、の?」
「そうだよ。君にだって、望みはあるだろう」
 今までに見たことのない、真剣な眼差し。
 ――この人でも、こんな顔をすることがあるのか。
 まっすぐに私を見据える表情に、いつもと違う印象を受ける。
「君が『望み』を叶えたいなら、僕は、できうるかぎりの手助けをするよ。約束する」
「……博士?」
 告げられた言葉に戸惑いながら、思わず私はつぶやいていた。
「どうしたのですか? なぜ、突然そんな話を」
「突然、じゃないよ」
 静かに答えた博士は、頬にかすかな笑みを浮かべた。
「本当は、もっと早くに、そう言いたかったんだ。君を、ここに縛りつけていてはいけないって、ずっと、思っていた。……ただ、どうやって言い出せばいいのか、わからなかっただけさ」
 ――おかしい。
 不安の雲が、嵐になりかけていた。
 なぜ、そんな話をするのですか?
 ざわざわと、気持ちが揺れ動く。
 ……なぜ、そんなに、苦しそうに微笑むのですか?
 もう、疑問を声にすることもできない。
『君の『望み』は何だい?』
 ぐるぐると、その言葉が、頭の内側を回っている。
 私の、『望み』?
 投げかけられた言葉が、私の内側に浸透する。
 探し始める。
 何を、望んでいた?
 心の中を、じわじわと。
 さかのぼる。
 私の、記憶の、始まりの地点まで。

 目が覚めたとき、私には、『私』に関する記憶がなかった。
 新緑の光舞う森の中で、わけもわからずに、ただ座りこんでいた。
 自分は、いったい何者なのか。
 自分は、今まで何をしていたのか。
 そして、自分は、どこからやってきたのか。
 どんなに思い出そうとしても、全く、何一つわからなかった。
 時ばかりが過ぎ、どうすることもできない私は、とりあえずその場所を離れ、歩き始めた。私が目覚めたのは道の端だったので、その道をたどっていけば、どこかには着けるだろうと考えたのだ。
 やがて、歩き続ける私の前に、一軒の家が姿を現した。
 ほかに何もない森の中に、ぽつんと。白い家。
 何か不自然さを感じて、首をひねったとき。その家の扉が、ふいに内側から開かれて――

 思い出す。私を見つけたその人が、あまりにも嬉しそうに、満面の笑みを浮かべたのを。
 そして、……わかってしまった。
 ――ああ。
 私の、『望み』、は――……