ぼくの悲劇のヒロイン
 悲劇なんてどこにでも転がっている。いつだったか、彼女がそう言っていた。
 たしか、生い立ちを話してくれたときだったと思う。彼女はときどき、笑い話のように自身の過去を口にすることがあった。ただ、それは多少の誇張が含まれていたとしても薄幸と表現して差し支えないもので、そのたびにぼくは胸が痛んだ。
 けれど彼女は、いつもぼくに微笑んで、こんなふうに言ってくれる。
「今は幸せよ。あなたがいてくれるもの」
 そんな言葉を聞くたびに、はにかんだような笑顔を見るたびに、ぼくがどんな気持ちになっていたか、きっと彼女は知らない。
 知らないまま、すべては終わってしまったのだ。
 いまだに悪い夢でも見ているような気持ちで、ぼくは、ぼんやりと視線を泳がせた。ふと目に留まった置時計が、いつのまにか真夜中も過ぎていたことを示している。
 先日取り替えたばかりの蛍光灯が、室内を明るく照らし続けていた。飾り気がなく、物もあまりないので、実際よりも少し広く感じられるぼくの部屋。全体的に茶色系でまとめてあり、よく言えば落ち着いた雰囲気、端的に表せば地味な印象だ。小さなリビングテーブルの下に敷かれた柄物のラグだけが、殺風景一歩手前な空間に彩りを添えていた。
 ベージュの地に三種類の茶色で蔓草が描かれたそのラグは、彼女がプレゼントしてくれた、ぼくのお気に入りだ。たぶん、地味すぎる部屋を気遣ってくれたのだと思う。その気持ちが嬉しくて、あと、照れと不安がないまぜになったような上目遣いで「あの、好みかどうかわからないけど、よかったら……」と小さくつぶやく様子があまりにも可愛くて、届いたその日からさっそく使い始めた。
 あれからおよそ二ヶ月。毎日目にして見慣れたはずのそのラグには、つい先ほどから、見慣れない模様が増えていた。初めは鮮やかな紅色だったはずのそれは、時間の経過とともに少しずつ光を失い、今やすっかり黒ずんでしまっている。おまけにせっかくの毛足が沈んでしまって台無しだ。クリーニングすれば元通りになるだろうか? ……いや、問題はそこじゃない。
 こわごわと視線を戻して、ぼくは、もう一度『彼女』を見やった。
 見慣れぬ模様を描いた赤い液体の、もともとの持ち主は、茶色の蔓草の上に静かに横たわっている。腹部にはラグと同じように赤黒い色が広がり、その染みの中心には、深々と包丁が突き刺さっていた。開いた口元からあふれ出た血の跡が、かつてなく青白い肌にこびりつき、虚ろな目は半開きのままぴくりとも動かない。いつも見ていたはずの顔なのに、まるで知らない別人のようだった。
 どう見ても、間違いなく、死んでいる。
 嫌でも現実を認めざるを得ない。
 ……どうしよう。
 どうしようもない。わかっているけど、でも、どうしよう。
 混乱しているのか、頭がまともに働かない。意味もない言葉がぐるぐる回る。後悔や焦りや不安がとめどなく湧き上がってくる。
 ああ、こんな事件を起こしてしまって、この先いったいどうなってしまうんだろう? ことが発覚するのは時間の問題だ。無断欠勤や音信不通が何日も続けば、勤め先や友人たちが必ず不審に思うはずだ。
 ぼくと彼女はお互いの部屋をよく行き来していたから、近くの住人の中には、それを覚えている人もいるだろう。警察が捜査を始めたら、そのあたりのことは、すぐにわかってしまうに違いない。もしかしたら、あっという間に逮捕されてしまうかもしれないし、今まで築いてきたものを、すべて失うことにもなりかねない。
 そう考えると、この死体をこのまま部屋に置いておくのは危険だ。かといって、移動させるのも難しい。車があれば何とかなるかもしれないけれど、そんなものはないし、そもそも車を運転したこともない。いっそバラバラにしてしまえば――いや、心情的にも物理的にも、それはかなりつらそうだ。そんなこと、できるわけがない。
 ああ、どうしよう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 悲劇はどこにでも転がっている。本当にその通りだ。いつか聞いた話を思い出しながら、ぼくは泣きたい気持ちになった。彼女が可哀想になった。
 ぼくの現状は、もう仕方がない。ただの自業自得だ。でも、彼女は、そうじゃない。どうして、彼女はこんな不幸に見舞われなければならなかったのだろう。これが悲劇でなくて何だというのか。
 彼女の苦難の道のりは、言ってみれば、生まれる前から始まっていた。彼女は望まれずに生まれてきて、そのために母親は亡くなったらしい。父親もなく、親戚に引き取られて育ったが、常に邪魔者扱いだった。学校ではたびたびいじめられ、親しい友人もあまりできず、ずっと孤独に過ごしていたという。かなり精神的につらい日々を送っていたようだ。
 それでもなんとか頑張って、学校を卒業し、どうにか生活していけるだけの職に就いた。家を出て、苦しいながらも一人での暮らしを始めることができた。つらい過去を乗り越えて、新しい人生を歩き始めたはずだった。
 それなのに、彼女はそこで、とんでもない不運に遭遇してしまった。そう、ぼくと出会ってしまったことだ。
 昨今よくある話ながら、彼女とはインターネットで知り合った。数あるソーシャル・ネットワーキング・サービスの一つを介してのことだ。
 だんだんよく話すようになって、気が合う人だな、と思っていた。いつだったか、趣味の合う何人かでオフ会を開こうという話になったとき、実際に顔を合わせてみて、想像していたよりずっと可愛い人だな、と思った。たぶん、そのときすでに、ぼくは彼女を好きになりかけていた。
 そのあと、ときどき二人で会うようになった。もともと話の合う二人のことで、すぐに長年の友人のように仲良くなった。会うたびに、ぼくはますます彼女のことが好きになった。彼女のしぐさや雰囲気や、ちょっとした言い回しがとても可愛くて、一緒にいるだけで幸せな気持ちになった。
 同じように、彼女のほうも、ぼくに好意を寄せてくれていたようだ。お互いに何も言いはしなかったけれど、ぼくたちは、いつしか自然と恋人同士のような雰囲気になっていた。
「わたし、幸せな家庭を築くのが夢なの」
 だいたい、そのころからだっただろうか。彼女はよく将来の夢の話をするようになった。少しくらい頼りなくてもいいから、優しい人と結婚したい。子供は二人、できれば男の子と女の子と一人ずつ産みたい。夫を支える妻であり、子供たちに慕われる母でありたい。笑顔を絶やさず、あたたかい家庭を守っていきたい。
 家族の愛情に恵まれなかったからだろう。彼女が語るのは、そんなささやかな夢だった。そして、ささやかであるがゆえに、それは揺るぎない願いでもあった。あきらめるなんて考えられないし、その夢を叶えるためなら、どんな努力も惜しまない。彼女のそんな想いが、ひしひしと感じられた。
 だから、やめておけばよかったんだ。その時点で、彼女と距離を置くべきだった。ぼくには彼女を幸せにできるだけの力なんてなかったんだから、何とでも理由をつけて、関わらないようにすればよかった。そのほうがお互いのためだってことは、よくわかっていたはずだった。
 それでも、もっと一緒にいたいとか、もっと仲良くなりたいとか、そんな願望を抑えきれなくて、ぼくは結局、それまでと同じように彼女とつきあい続けた。深入りを避けて、とても仲の良い友人という立場にぎりぎりで踏みとどまって、もう少しの間だけでいいから彼女の一番近くにいたいなんて、虫のいいことを考えていた。
 当然ながら、そんな煮えきらない態度のぼくを、彼女はじれったく思っていたようだ。ぼくに対して、初めはひかえめだった態度が、そのうちにだんだんと積極的になってきた。
 一人暮らしのぼくの部屋に、作った料理を持ってきてくれたり、あるいは食材を持ってきて作ってくれたりするようになった。とにかく何を作ってもおいしいのだから、なかなか断りきれなくて困る。露出の多い服を着てきたり、意識的に身体を寄せてきたりするようにもなった。何を着ても可愛いうえに、すごくいい匂いがするのだから、これも困る。
 こうなってくると、彼女との駆け引きがどうこうというよりも、もう自分の理性との戦いだった。今思えば我ながら最低だったけれど、そのときはそのときなりに懸命だった。
 そして、彼女のほうは、それこそ必死の思いだったんだろう。もともとおとなしい女性だったし、こんなふうにぼくの部屋に来るようになったのだって、彼女にしてみれば相当に大胆な行動だったはずだ。
 それなのに、ぼくは相変わらず、友達のような関係から抜け出そうとはしなかった。事態は膠着したままで、思わしい方向へは動かない。いつまでも進展のない現状に、彼女はついに決意を固めたらしく、思い切った行動に出た。
 今夜、いや、もう昨夜になるのだろうか? 昨日の夜八時ごろ、いつものように彼女はこの部屋にやってきた。座ることを勧めたぼくに首を振り、その前にお願いがあるの、とこちらを見上げた。彼女のまなざしは真剣だった。
「結婚を前提に、私とおつきあいをしてください」
 いつになく改まった口調で彼女は言った。緊張のためか、頬は紅潮していたし、どこか泣き出しそうな顔にも見えた。
 本当なら、ぼくのほうから、そう言ってほしかったに違いない。けれど、このまま何も変わらないよりは、自分から切り出したほうがいい、そう思ったんだろう。彼女のいじらしい決意に、ぼくはさすがに罪悪感を覚えた。これ以上、彼女をあざむくようなことはできない。こんな関係を続けるのは、もう終わりにするべきだった。
 ごめん、それはできない、とぼくは答えた。ぼくにはそんな器はない、きみを幸せにすることだってできそうにない。きみはとても素敵な女性だし、きみにふさわしい相手はきっと見つかるはずだ。ぼくはきみの人生を応援したいし、友人として、できることなら何でも協力するよ……。そんな当たり障りのない言葉で、彼女の願いを断った。
 彼女は、とても傷ついた顔をした。堪えようとしたようだけれど、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。それはそうだろう。今までずっと恋人同士みたいな雰囲気だった相手に、そんなつもりはないと言われたんだ。裏切られた気持ちになってもおかしくない、というか、実際にひどい裏切りだった。
 彼女は泣きながら、持ってきていたバッグを開き、その中を探り始めた。ハンカチでも取り出すのかなと思って見ていたんだけれど、ややあって彼女が手に取ったのは、どう見ても涙を拭くために使うものじゃなかった。
 蛍光灯の光をぎらりと反射するそれは、彼女の手には少し重そうな、刃物だった。よく魚をさばくときなんかに使う、刃が厚くて鋭利な、いわゆる出刃包丁というやつだ。
 なぜ、そんなものが、バッグの中から出てくるのか。予想をはるかに超えた事態に、ぼくは、ぽかんとして彼女を見た。
「ねえ、本当のことを言って」
 切っ先をぼくに突きつけて、彼女は濡れた瞳でささやいた。
「本当は、もうほかの女の人とつきあっているんでしょう? だから、私とはつきあえないってことなんでしょう? だったら、私のことなんか嫌いだって、もう関わるなって、はっきり言って。それなら、私もあきらめがつくわ」
 なんだか、非常に、大変なことになった。それだけは一応わかったものの、いったい何がどうしてこうなったのか、まるで理解が追いつかない。混乱を通り越して、ぼくはすっかり放心状態だった。
 そもそも、彼女はとんでもない思い違いをしているようだった。ぼくが誰かとつきあっているだなんて、どうしてそんなふうに思ってしまったんだろう。彼女以外に想いを寄せる相手なんていないし、できることなら、ぼくだって彼女との間に壁を作るようなまねはしたくなかった。でも、そのほうが彼女のためだと思ったから……。
 いや、呑気にそんなことを考えている場合じゃない。現状をどうやって切り抜ければいいのか、ぼくは考えをめぐらそうとした。けれど、とても冷静に考えられるような状態じゃなかった。
「本当のことを聞きたいの。ねえ、答えて」
 彼女はふるえる両手で包丁を握りしめ、じっとこちらを見据えていた。悠長に答えを待ってくれそうな様子はなかった。
 ただ、いくら切っ先をぼくに向けているとはいえ、本当に刺すつもりはないはずだ――と、ぼくは考えた。正確には、そう思いたかった。
 たぶん彼女は今までも、ぼくの態度から、何かが不自然だと感じ取っていたんだろう。その違和感の正体を、もしかしたら別に恋人がいるからじゃないか、自分はずっとだまされていたんじゃないか、そう思ってしまったんだ。そんな不安や嘆きを抑えきれなくて、その答えをどうしても聞きたくて、軽く受け流されないように、こんな行動に出てしまったに違いない。
 ぼくには、確かに、ずっと彼女に隠していたことがある。彼女と親密になりすぎないようにしていたのも、こうして彼女から少し離れようと決意をしたのも、それが理由だった。
 何度か、言おうとしたこともあった。けれど、知られたら、さりげなく距離を置かれたり、嫌われてしまったりするんじゃないかと思って、結局言い出すことができなかった。会うたびに、彼女を好きになるたびに、同じくらいに怖くなって、いつしか、できるかぎり隠し通そうと思うようになった。できれば、この先も、ずっと隠したままでいたかった。
 でも、とぼくは思った。それでいいのだろうか、という気持ちも少なからずあった。これまでずっと彼女をあざむいてきて、彼女の気持ちを裏切って、しまいにはこんな行動まで起こさせて、それでもなお保身のために事実を偽ろうなんて、あまりにも不誠実じゃないか?
 ぼくは彼女をひどく傷つけた。自分だけが傷つかずにいようなんて、身勝手にもほどがある。彼女に出会えて、ぼくはとても幸せだった。幸せな思い出をたくさん作ることができた。彼女のことが大好きだった。そんな彼女に、もう今までのように一緒には過ごせないだろう彼女に、ぼくが今できる一番のことは、真実をきちんと伝えることじゃないか。
 ぼくは腹をくくった。本当のことを、彼女に告げた。秘密にしていたことを、今さらすぎるのはわかっていたけれど、打ち明けた。
 彼女は、呆然とした表情でぼくを見た。予想外のことを言われた、といった様子だった。しばらく言葉も忘れたようにぼくを凝視していたが、やがてかすかにかぶりを振ると、どうして、と掠れた声でつぶやいた。細い身体がふるえて、ぼくを見上げる両目からは、止まりかけていた涙が再びあふれ出した。
「どうして、まだ、嘘をつくの……?」
 小さくふるえる声が、一言ずつ区切るように、こぼれ落ちた。告げられた内容が意外すぎたのか、彼女は、ぼくの話を信じなかったようだった。まるで独り言のように、抑揚なく言葉を続ける。
「私は、あなたにとって、その程度の存在だったの? 本当のことが聞きたかっただけなのに、それすら、あなたの口から聞かせてはもらえないの……?」
 嘘じゃないよ、本当に――と言いかけたぼくの声を遮って、やめて、と彼女は低くつぶやいた。
「もういい。もう、いい……。もう……」
 視線を落とし、うつむいて、何度かそう言ったかと思うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。ぼくを見つめるその瞳には、今までに見たことのない、暗い光が宿っていた。何か嫌な予感がした。それが何なのかを考える間もなく、彼女は手にした刃物をそのままに、ぼくへと向かってきた。
 突然のことに、頭の中が一瞬真っ白になったが、それでもなんとか身体をよけた。泣きながら向かってくる彼女の腕をつかんで、やめさせようとした。そのまま、彼女ともみ合いになった。そして――。
 詳しい状況はよく覚えていない。気がついたときには、目の前に、もの言わぬ骸が横たわっていた。あまりのことに、ぼくはしばらく放心し、現状から目を背けようとした。もちろん、そんなことをしたって、起きてしまったことは何一つ変わらない。現実は残酷だった。
 本当に、これが悲劇でなくて何だというのだろう。ぼくは申し訳ない気持ちになった。彼女を気の毒に思った。ぼくの考えが足りなかったんだ。いくら本当のことを教えてほしいと言われたからって、正直に話すんじゃなかった。彼女が誤解していた通りに、ほかに好きな人がいるとでも何でも言えばよかったんだ。
 ぼくは知っていたはずだ。彼女は、愛されずに育ってきた。愛情を求めながら生きてきた。幸せな家庭を築くのが夢だったんだ。そんな彼女が、真剣に結婚を考えたほどの相手に、実は女なんだなんて言われたって、すんなり信じられるわけがないじゃないか。
 溜息をつきたくなった。もう泣いてしまいたかった。けれど、今のぼくには、吐き出す息も、流す涙もありはしなかった。
 もうすぐ朝がやってくる。カーテンが閉まっているとはいえ、灯りのついたままのこの部屋を、誰かが不審に思うかもしれない。できることなら、足元の骸を、この惨状の痕跡を、どうにかして隠してしまいたかった。けれど、今やすっかり身体から切り離されてしまったぼくには、自分の死体が発見されるのを、ただ黙って待つことしかできそうになかった。
END.