愛のない世界のために
 魔王の住まうこの森に、もはや何人目になるのかもわからない勇者が来た。
 飾り気のない部屋にひっそりと溶けこんでいた魔術鏡が、ふわりと淡く輝く。久方ぶりながらも馴染みあるその光に、私は読んでいた本から顔を上げた。見回す室内に彼女の姿はなく、一瞬首をかしげたものの、そういえば先ほど隣の寝室に入っていったな、とぼんやり思い出した。
 部屋の主がいない状態でも、魔術鏡は定められた通りの反応を見せる。もう何ヶ月も暗く黙りこんでいた鏡のおもてに、今は、はっきりと一つの光景が映し出されていた。木々や草木の生い茂る、道なき道を進む一行。十代なかばほどの少年、それより二つばかり上に見える若い女、二十代後半と思しき男の三人組だ。
 この深遠の森は、魔王の居城を取り囲む、外壁の役割を果たしている。森に踏み入るということは、魔王の領域に入りこむということだ。私が知るかぎり、そうしてここを訪れる者は、魔王の生命を狙う、勇者と呼ばれる者たちしかいない。
 三人は見慣れぬ植物に手間取りながらも、城を目指して進んでいるようだ。見たところ、先頭に立つ少年が勇者であろう。若い女は彼の補助か、もしくは世話役のようだ。二人から少し距離を置き、あたりの様子を窺っている男は、その出で立ちからして神官であり、おそらく勇者の監視役だろう。私が勇者と呼ばれていたときも、あのような監視役がいた。
 考えてみれば、私が勇者としてここへやってきたときも、同じような三人組だった。共に旅をした他の二人が今はどこで何をしているか、それは私のあずかり知らぬことではあるが、勇者が寝返るのを止められなかったのだから、帰還後はそれなりの風当たりに遭ったことだろう。監視役の神官はともかくとして、なりゆきで私たちについてくることになった少女に対しては、多少の罪悪感があった。
 それでも、私は、後悔していない。自分の選んだ道を、間違っていたとは思わない。あの日、魔王と初めて出会ったときの衝撃を、私は決して忘れないだろう。深い闇に囚われた彼女の瞳、あの深淵を目にしたとき、瞬時にして私は悟ったのだ。――求めていたものは、ここにあったのだと。
 私は魔王に剣を向けることもせず、配下にしてくれと頼みこんだ。そんな私を、魔王は興味なさそうに眺めるだけだったが、旅仲間の少女はあせったように思いとどまらせようとしてきた。少女は、昔この近くで暮らしていたことがあるという理由で案内役を引き受けただけの、言ってみれば一般人だ。魔王と対峙した途端に心変わりした勇者を見て、慌てふためくのも無理はなかった。
 私を引き留めようとする少女とは対照的に、監視役の神官は、神への冒涜であり神殿に対する侮辱だと怒りに震えながら、私に対してさまざまな悪口雑言を浴びせてきた。それまで品行方正な態度を崩さなかった彼の豹変ぶりに、少女はますます狼狽し、さすがに私も少しばかり気の毒に思った。
 それでも少女は、私の意志が固いとわかると、最終的に神官を説きふせて連れ帰ってくれた。女の強さというものの一端を垣間見た気がする。おかげで、私は魔王の領域を神官の血で汚さずに済んだ。基本的に自分さえよければいい私だが、そのことには素直に感謝の気持ちがある。
 帰還した監視役が私のことをどう報告したのかは知らないし、国での私の扱いがどうなったかもわからない。おそらく殺されるか追い出されるかのどちらかだろうから、国に戻りたいとも思わない。帰る場所もないし、帰りを待つ者もいないから、気楽なものだ。
 もともと私は捨て子であり、家族というものを知らずに育った。幼いころを過ごした孤児院でも、私のような捨て子は特に立場が弱く、何かと標的にされた。子供からの嫌がらせや暴力などはまだいい。大人からの虐待は本当にひどく、そのせいで亡くなった子供はたくさんいた。幸か不幸か、私はたまたま生き残り、それからもいろいろな目に遭いながら生き延びた。
 そして十代後半のころ、神殿によって突然勇者に選ばれる。神官たちは神の意思だと言っていたが、本当にそうならば、こうして魔王に心酔などするはずがない。何かあっても使い捨てにできる者として、大勢の候補の中から適当に選んだのだろう。
 神官たちにとって、勇者に求める一番重要な要素は、都合のいい駒であることだ。為政者に恩を売りつけ、より良い立つ瀬を得ることが目的だからだ。自分たちの命令に忠実に従い、生命をかけて働き、それなりに腕が立ち、できれば魔王を倒した暁には面倒がないように死んでくれる人間ならば、誰でもかまわないだろう。
 学のない当時の私には知る由もないことではあったが、何か裏があることには、うすうす気づいていた。それまでの人生経験から、ある程度、ものごとの裏表が見えるようになっていたからだ。彼らの言うことにいちいち頷いてみせてはいたが、内心ではまったく信用していなかった。
 勇者として魔王城へ向かったのも、正義感や使命感といったものからではなく、下手に断ると面倒なことになりそうだったからだ。神殿側が顔をつぶされたなどと思おうものなら、確実に厄介ごとに巻きこまれる。それならば、魔王城まで行ったけど強すぎて倒すのは無理でした、とでも言ったほうがまだましだろうという判断だ。
 その言い訳で逃げきれたかは今考えると疑問だが、魔王城へ向かうことにしたのはいい選択だった。そのおかげで、私は彼女に出会えたのだから。
 魔王に敵意がないらしいのをいいことに、私はこの城に住み着いた。いや、敵意というのは正確ではない。魔王は私に対して、敵としての認識どころか善意も厚意もなく、もっと言えば、何の関心もないようだった。
 唐突に配下にしてくれと言い出した、元は勇者であったらしい、得体の知れないこの男がこれから何をしようともどうでもいい。たとえ自分に害をなそうと、自分の生命を脅かそうと、勝手に好きなようにすればいい。そう思っているのがありありと伝わるような態度だった。
 初めに了承を得られなかったので、私はいまだに配下にしてくれと頼み続けている。配下になって何をするわけでもないのだが、まあ気分の問題だ。だが、だいたいの場合、魔王は興味なさそうに一瞥をくれるだけだ。気が向いたときには二言三言口を開くが、おまえのことはどうでもいい、そう言っておいて裏切るのだろう、できないことを言うものではない、だいたいこういう言葉しか返ってこない。それでもなお配下にと言い続けて、もう何年が経っただろうか。十年は確実に過ぎたと思う。
 魔王は私に名を聞かなかった。旅仲間たちも私のことは勇者としか呼んでいなかったので、彼女は私の名を知らない。そして私も、彼女の名を聞くことはなかった。魔王が私に関心を持たないのと同様に、私も彼女に対してさほどの関心がなかった。互いにほとんど干渉しない、この居心地のいい空間があればそれでよかった。
 私はただ、彼女の暗い双眸、その深層に縫いとめられた美しい虚無のような絶望を目にすることだけを望んでいた。私が囚われたのは、まさしくその闇の深さだった。
 他者を信じることをせず、どんな相手に対しても一定の距離を保ち、踏みこませず、踏みこみもしない。他者を愛することをせず、他者に愛されることを忌憚する。それが私の在り方だった。協調と同調によって作られた世界の中で、私という存在は確実に異物だった。その私が、思いがけず見つけた、自分と同調する世界。それが、彼女の瞳の中にあったのだ。
 あれから、おそらくは十余年。私にとって、彼女の双眸を見つめること、そのために彼女を守ること、それゆえに勇者たちと対峙すること、その連続で世界は成り立っていた。そして今、数ヶ月ぶりに現れた新しい勇者一行を、私はまた追い返す。何もない、私にとっての美しい世界を守るために。
 手元の本を静かに閉じて、すぐそばに立てかけてあった剣を取る。立ち上がり、勇者たちが着くであろう城の入口へ向かおうとすると、ふいに横の扉が開かれた。それは魔王の寝室に続く扉であり、そこからこちらの居室に入ってくるのは、確認するまでもなく彼女本人だ。少し部屋を空けることを伝えておこうと振り向いた私は、そこに、信じられないものを見た。
 魔王は部屋に入ってきたそのままで立ちつくし、ちょうど正面にある魔術鏡を凝視していた。その顔は、今までに見たことがない、明らかな驚きを表していた。彼女にこんな表情ができたということを、私は今初めて知った。そもそも彼女は、これまでほとんど表情を変えることがなかった。喜びや嬉しさはもちろんのこと、悲しみや怒りや苦しみさえも、彼女の中には存在していないかのように。
 思わず呼びかけると、魔王ははっとしたように私を見た。剣を手にした私の様子に、何をしようとしているのかを察したらしい。こちらへと数歩近づき、ゆっくりと首を横に振り、そして短くつぶやいた。自分が行く、と。
 私は、呆気に取られた。魔王の声は、その瞳は、常とかけ離れてわずかに震えていた。そして、告げられたその内容。私がここに住み着くようになってから、彼女がそんなことを言い出したことは一度もない。ばつが悪そうに視線を逸らす、そのまなざしは感情のままに揺れ動き、私の知らない光を宿していた。
 黙ったままではいられないと思ったのか、魔王はためらいがちに口を開いた。勇者であろうあの少年は、自分の息子であること。かつて人間の男と恋に落ち、周囲の反対を押しきって駆け落ちしたこと。だが先代魔王である父の命令によって見つけ出され、相手の男は惨殺されたこと。見せしめと称して、二人が暮らしていた町の人間たちを皆殺しにされたこと。父や配下の魔族たちに復讐を誓い、この城に住んでいた者を自分以外残らず葬り去ったこと。その後出産したものの、心が荒んでいたことから、一人で育てられる自信がなく、人間の町の孤児院に預けたこと。そして本当に一人きりになって、何をする気力もなく、この城で漫然と過ごし続けていたこと。
 どこかぼんやりと話を聞きながら、ああ、そういえば、と思い出す。私が神殿に見出される数年前、長いこと不可侵の約束を守っていた魔王が、突然ある町を滅ぼしたという話があった。不安に駆られた人々の声に動かされる形で、おおよそ百年ぶりに勇者が選ばれることになったのだ。
 けれど、魔王の悪行と言える悪行はその一件だけで、その後は何の話も聞くことはなかった。実際に出会った魔王が、世界のすべてに対して何の興味もなさそうだったこともあり、噂はただの噂だったのだろうと思っていた。
 魔王の話はなおも続く。子供のことを忘れていたわけではなかった。魔力は自分が封じていたし、人間として静かに暮らせればいいと思っていた。もう会うことはないと思っていた。けれど、こうして勇者となってしまったのなら、自分が隠れているわけにはいかない。結果として彼に殺されたとしても、それはきっと、子供を手放した罰なのだろう。
 話し続ける魔王を、私はじっと見つめていた。私が知る、私が心から魅せられた、虚ろな闇に閉ざされた魔王はそこにいなかった。奇跡のように私が見つけた、あの美しい世界は、彼女の潤んだ瞳の中で、今にも消えそうに淡く揺らめいていた。――ああ、だめだ。やけに澄みきった頭の中で、警鐘のようにその言葉が鳴り響く。だめだ、だめだ、ああ、このままでは。
 彼女は続ける。そのくちびるが、最後の言葉を紡ぎだそうとしている。こうして魔術鏡を置いていたのも、何もかもどうでもいいと思いながら、心のどこかで待っていたからかもしれない。いつか、あの子とまた会えるかもしれないと。だってあの子は、あの人が、唯一遺してくれた存在だから。子供を捨てた母親とはいえ、それでも私は、きっとあの子を――
 言葉は、そこで途切れた。鮮やかに噴き出した血が、紅の布のようにひるがえる。魔王の身体はゆらゆらと傾ぎ、ついにばたりと倒れこんだ。飾り気のなかった部屋は、花が咲いたように彩られていく。血に塗れた剣が、するりと手から抜け落ちた。しばらくののち、あらゆる水音がやんで静かになった。
 魔王は信じられないといった面持ちでこときれていた。そっとひざまずき、もはやぴくりともしない彼女の顔を覗きこみ、ああ、と私は安堵の溜息を漏らした。
 見開いたままの彼女の双眸、その深淵には、美しい虚無が広がっていた。何を映し出すこともなく、何の光も受け入れず、何ひとつ望むこともない瞳。私がどうしようもなく惹かれ、囚われ、いつしかこの心に刻みこまれていた、深い深い闇。
 ああ、と私は息をこぼした。何度も、何度も、感嘆の声があふれた。私の世界は、ここにある。私が唯一許される場所、私が唯一帰り着く場所、私が唯一望んだ世界は、私のこの手で守られた。
 じんわりと虚無が広がり、ぽたりと水の音がした。知らず張りつめていた力が抜けて、ふいに身体の感覚が戻ってくる。再びしずくの音が聞こえた。頬をひとすじ、何かが流れる。
 魔王は一度も頷いてくれなかったが、私はいまだに配下にしてくれと頼み続けていた。彼女からは、おまえのことはどうでもいい、そう言っておいて裏切るのだろう、できないことを言うものではない、だいたいこういう言葉しか返ってこない。それでもなお配下にと言い続けて、もう何年が経っただろうか。十年は確実に過ぎたと思う。
 このまま、二十年でも三十年でも、私は同じことを言い続けるつもりだった。いつか寿命が尽きるまで、あるいは、勇者によって倒されるまで。そして死の間際には、きっと、ようやく、私は笑うことができるのだ。どうです、私は裏切らなかったでしょう。そう言って、安らかに死ねるはずだったのだ。
 私の最期の言葉にも、魔王は特に反応を示さないだろう。興味なさそうに眺めるだけだろう。だが、それでいい。それがよかった。彼女は私に興味を持たない。だから、私から興味を失うこともない。魔王と共にいるかぎり、私はもう、捨てられることも、見限られることも、裏切られることもない。絶望に突き落とされるたびに自分がまだ何かを信じていたことを思い知り、その愚かさに打ちひしがれるようなこともない。そんなことは、もう、二度と起こらない。
 漏れ出る声は、いつしか嗚咽へと変わっていた。私は、失いたくなかった。私にとっての魔王という存在を、私にとっての優しい世界を、たったひとつの、夢とも呼べないささやかな夢を、失いたくなかった。消えゆこうとする私の居場所を、手放すことができなかった。どんな手段を使ってでも、繋ぎとめておきたかった。
 それなのに、どうしてだろう。願いは、叶えられたはずなのに。この、胸をふさぐ苦しみは何なのだろう。身体からあふれるほどにふくらんで、けれど決してあふれることのない、この想いは何なのだろう。
 物心ついたころから、私は生きることだけで精いっぱいだった。他者は信用できないから、なるべく関わらず、深入りしないようにしてきた。親しい者など誰ひとりとしていなかった。うっすらとした恐怖心と警戒心を、誰に対しても抱き続けてきた。他者に対して思うことなど、利用できるかできないか、面倒なことにならないか、言動にどの程度の裏があるのか、その程度でしかなかった。
 だから、私は知らない。もはや二度と動くこともない、完全なる虚無に呑みこまれた、私に対して何らの不利益をもたらすことのない彼女に対して、苦しいほどに感じているこの想いの名を。
 この感情を何と呼ぶのかを、私は、知らない。
END.