幸いなる終焉のために --- Yours lovingly
[ Before ] side ----- 息子の話
 あれ、旅人さんですか? ……ああ、こんにちは。めずらしいですね、こんなところに旅の方なんて。この先は行き止まりですよ? ……いえ、町が一つありますけれど、そこで道は終わりなんです。どこか他に目的地があるのなら、ここで引き返したほうがいいと思いますけれど……。

 私ですか? ええ、その町から来たんです。そうですね、私も旅に出たと言えるかもしれません。死出の旅路、というやつですね。……ええ。死ぬ場所を見つけに出てきたんです。町の中では人の目がありますし、一応人間ですから、死んだあとにもいろいろと面倒ごとがありますしね。それで、誰にも見つからずに朽ち果てられるような場所はないかと思って……、え? どうして死を選ぶのか、ですか? そうですね……、あえて言うなら、生きる理由がないから、というのが理由でしょうか。

 今までも、何度か同じことを試みたことはあったんです。でも、母が……、あ、私の唯一の家族なんですけれど、母がどう感じるだろうと思ったら、なかなか踏み切れなくて……。ここまで育ててもらった負い目もありますしね。女手一つで、たいへんな苦労だったと思います。それなのに、私はこんなふうにしかなれなくて、申し訳ないというか、顔向けできないというか……。

 昔から、私は人づきあいが苦手でした。周りに合わせるということが、私にはなかなかできなかったんです。……楽しいと感じることや、やりたいと思うこと、そういったものが、周りと私とでは大きく違っていたように思います。もちろん、多少なら自分の意見を控えることもできました。でもそれは、あくまで多少なら、の話です。自分の心を殺してまで他人に合わせるなんて、私にはとても無理だったんです。私は……、もともと苦手でしたが、だんだん人と話をするのが嫌になってきました。誰も私の話を聞いてくれなかったから……なんて言うと、ひがんでいるみたいですね。正確に言うと、誰も私が周りとは違うということを認めてくれなかったから、です。……あんまり変わりませんね。

 実際、私はただひがんでいるだけかもしれません。周りから浮いている、自分だけずれている、なんて、子供じみた思いこみかもしれません。いえ、きっとそうなんでしょう。私は、ただ忍耐が足りないだけで自分勝手な、それ以外はごく普通の人間なんでしょうね。でも……、ああ、笑われるでしょうか。私はやっぱり、周りと同じようには、普通に振る舞うということができなかったんです。

 いろいろな人に、よく言われました。なぜそんなこともできないのか、なぜそれだけのことを我慢することもできないのか、おまえはわがままだ、少しは周りの話も聞き入れたらどうなんだ、とね。一番口をすっぱくしていたのは母でした。おまえはやればできるんだから、きっと認めてもらえるから、だからもう少し頑張りなさい、ともよく言われました。母は、私を普通の人間だと思っていました。普通の人間が普通にできることが、私にできないはずがないと思っていました。だからそんなふうに怒ったり、励ましたりしていたんだと思います。

 でも……、でも、それは私にとって、ただの重荷にすぎませんでした。私には、自分が普通に生きられる自信なんてまったくありませんでした。私は、自分が母の望むようにできないことを知っていました。折れることのできない性格なのもよくわかっていました。自分を殺してまで生きるなんて、とても考えられませんでした。そして、そんな自分のままでは、周りに認められるはずがないこともわかっていたんです。それなのに……、母には、それがわからなかったんです。いえ、認めたくなかったのかもしれません。自分の息子がそんな人間だなんて、誰だって信じたくないですよね。

 母と私との溝は、日に日に深まっていきました。母はだんだん感情的になり、声を荒げることが多くなりました。常に不機嫌でいるようになり、些細なことでよく怒るようになりました。母は私に、誰にでも認められる人間であってほしかったんだと思います。そう望むことは、決して間違いではないでしょう。人の親であるなら、それはいたって自然な願いのはずです。たったそれだけの小さな願いすら、……私には叶えることができませんでした。

 こんな自分に生きる意味など、生きる資格などありません。そうと知っていながら、私は何もすることができませんでした。生きようとすることも、死ぬこともできなかったんです。……そんな私に、あるときついに、母はこう言ったんです。せっかく生まれてきたのに、なぜもっと真面目に生きようとしないのか。生きるつもりがないのなら、いっそ死んでしまえ、と。

 そのときの私の気持ちを、きっと誰も理解できないでしょう。その瞬間、私は、許された、と思いました。許されない、許されるはずのないこの醜い存在が、彼女のその一言によって許された。救われた、とそう感じたのです。

 存在していること自体に、私は何の希望も見出せませんでした。生きようとすれば自分を殺さなければならず、自分を生かすためには死ぬしか道がなかったんです。自分の選ぶ道はきっと後者だろう、と私は思っていました。けれど、そのことを母は決して許さないだろう、とも考えていたのです。いくら私が望みどおりにならない、言ってしまえば役立たずの邪魔者でも、彼女にもらった命を自ら手放すなんて、厳格な母が許すはずがない、と。

 それがゆえに、私は何度も死をためらい、少しずつ自分を殺しながら無駄に生き長らえてきました。ですが、そんな必要はまったくなかったのです。私には、初めから死が許されていたのです。無理に生きようとして自分を犠牲にする必要など、本当はなかったのです。それに気がついたとき、私は少しだけ、目の前が明るくなったような気がしました。ああ、私は死んでもいいのだ、と。

 ……でもね、知ってはいるんですよ。人間は時として、思いもしないことを口にしてしまう生き物だと。だから、あのときの母の言葉が、どの程度本心だったのかを考えてしまうんです。あれが本当に、心からの言葉だったとしたら、こんなに嬉しいことはありません。けれど、もしもそうではなかったら……、一時だけの感情だったとしたら、激情に駆られて思わず口にしてしまっただけの言葉だったとしたら、あるいは、そのときは本気だったけれど、時が経つにつれてその気持ちが薄らいでしまっていたとしたら……、そんな可能性が頭に浮かぶたびに、私は不安を覚えずにいられません。もしもそうだとしたら、私はこれ以上ないほどの親不孝者になってしまうでしょう。

 私は今まで、母に大変な苦労をさせてきてしまいました。偽善と思われるかもしれませんが、これ以上苦しめるようなことはしたくありません。本当は、母の望むように、普通に……、普通に友達がいて、普通に仕事ができて、普通に結婚して普通に幸せになって……、そんなふうに、普通に生きられれば良かったんでしょう。けれど私は、それを受け入れられる器ではなかったんです。

 そんな我が子の存在を、母がどんなに嘆いていたか、私はよく知っています。身に染みてよくわかっています。だから、――だから、あの言葉はきっと、本心だったと思うんです。そうでなければ、あまりに母が哀れです。ただ産み落としてしまったというだけで、こんな私にずっと関わらなければならないだなんて。こんな私の存在に、責任を負わなければならないだなんて……、あまりにひどい話です。そんなことが許されていいはずはありません。私だって、それを許すことなどできません。……できなかったんです。

 私は、正しいことをしたのだと思います。あのまま町に留まっていたとしても、母が幸せになることなど決してなかったでしょう。町を出ていくと言った私を、母は止めませんでした。どこへでも好きに行けばいい、もう帰ってこなくても構わない、と。……けれど、もしも。もしも母が、私の死を嘆くことがあるとしたら……。万に一つのその可能性を、私はまだ否定できずにいます。そんなはずがないとわかっているのに、おかしな話ですね。……もしかしたら私は、この期に及んでまだ、自分には生きる資格があるのだとでも思いたいのかもしれません。

 ねえ旅人さん、一つだけ、お願いしても構いませんか。もしもあなたが、あの町に立ち寄るつもりでいるのなら……、その町で、もしも私の母が、……あのときの言葉を後悔していたとしたら。そうしたら、どうかこう伝えてはくれませんか。――あなたに死を許されて、私はとても幸せです、と。