得られざるもの --- Hopeless hope
[ After ] side ----- 囚われ人の話
 ……? 誰だい、君は。 ……旅人? そんな人が、なんだってこんなところに来るんだい? ここは牢獄だよ。いや、鳥籠かな? ――ははっ、それじゃあ可愛すぎるか。うん、ここは牢獄だよ。それで、君はどうしてこんなところに? ……僕の話が聞きたいって? ああ、街で『事件』のことを耳にしたんだね。旅の土産話ってやつか。うん、いいよ。どうせ暇を持て余していたところだしね。

 ええと、どこから話せばいいのかな。……彼女は、街でたまたま知り合った友人だったんだ。代筆屋の娘さんでね、街の一般的な基準を考えれば、それなりに裕福な暮らしをしているようだった。利発で率直で、裏表のない人間だったよ。世辞と建前ばかりの環境にいた僕にとっては、まるきり別種の生き物みたいな存在だったな。たぶん、それは彼女の側からしても同じだっただろうね。僕は普通に振る舞っていたつもりなのに、信じられない、何を考えてるの、ってよく言われたよ。まあ、彼女のそんな反応が新鮮で、わざと怒らせるようなこともよくやったけどね。

 ただ、それが度を過ぎたみたいで、あるとき彼女を本気で激昂させてしまったんだ。今度やったらもう絶交だからねって言われて、あのときはちょっと、……目の前が暗くなったかな。ごめん、今のは言い過ぎた、ってすぐ謝ろうとしたんだけど、彼女は全然聞いてくれなかった。まあ、当然だよね。それまでの僕の態度が態度だったから、仕方ないってことは自分でもわかっていたんだ。……何を言って怒らせたのかって? うん、ちょっとね……、女性関係で。

 僕は、……こんなことを言うと睨まれるかもしれないけれど、人並みに幸せになってみたかったんだ。家が裕福だったから、幼いころから、欲しいと思うものは何でも手に入った。……だけど、何を手に入れても幸せだと思ったことがなくてさ。まあ、幸せに限らず、いろいろな感情が鈍いみたいなんだけどね。幸せを感じられる人たちが、正直言って羨ましかった。それで、周りの話をよく聞いてみたんだ。そうしたら、どうやら『恋』をすると幸せに――いや、『恋』をすると苦しくなるんだけれど、そのあと『両想い』になると幸せになれるらしいことがわかった。

 『恋』とか『両想い』とか、それ自体があまりよくわからなくはあったんだけれど……。でもまあ、要するに、相手に自分を好きになってもらえばいい、相手の心を手に入れるってことだろうと思ってさ。街で、多くの人が『恋』しているらしい相手の女性に、とりあえず声をかけてみたんだ。そういう女性になら、僕も『恋』することができるのかなと思ってね。

 相手がこちらに見向きもしていないときは、結構楽しかったよ。何を言えば、何をすれば振り向いてくれるのかなって考えるのが好きだった。それを『恋』と呼ぶのかなと思ってもいたんだけれど……、どうしてだろうね。相手の気持ちがこちらになびいてくると、感情がすっと冷めてしまうんだ。会っていても、話していても、あまり楽しくなくなってさ。

 結果として、僕は何度もそれを繰り返した。だから、たくさんの女性を泣かせたし、恨まれたことも多いよ。当人にも、周りの人間にもさ。はたから見れば、女性をとっかえひっかえしている、ただのたちの悪い男だからね。……いや、実質、そうなのかな。悪いとは思っていたんだけれど、自分でもどうしてなのかわからなかった。僕はただ幸せを知りたかっただけで、『両想い』になってみたかっただけなのに、最後にはいつも酷い状態になっているんだ。……自分のせいで誰かが泣くって、気持ちのいいものじゃないね。 

 そんなとき彼女に、いいかげん誰かに落ち着いたら、って言われてさ。彼女にしてみれば当然の感想だったろうに、僕は大人げなくかちんと来てね。聞くほうが腹を立てるような言い方をしたものだから、それで彼女に見限られたんだ。けど、どうにかならないかなって思った。僕にとって、彼女は特別な友人だったし、失うなんて考えられなかった。彼女と二度と会えない人生なんて、想像しただけで息が詰まりそうだったよ。

 だから、僕は懸命に考えた。あんなに頭を使ったのは、生まれて初めてだったね。どうにかうまく解決する方法はないかと思って、夜を徹していろいろ考えて……、最後に、とてもいい案を思いついたんだ。僕はすぐさま彼女の家を訪ねて、こう言ったよ。君に結婚を申しこむ、ってね。

 理由は、こうさ。断られたなら、頷いてもらえるまで求婚し続けるだけだし、たとえ結婚は承諾されたとしても、彼女ならたぶん、僕に気持ちがなびくってことはないだろう。だから僕の感情も冷めないし、ということは、彼女に絶交されることもなくなる。加えて、毎日彼女と一緒に過ごせたら、それはとても楽しいだろう。素晴らしいじゃないか?

 今にして思えば、徹夜で頭の働きが鈍っていたんだろうね。でも、そのときの僕は本気だった。彼女はいい迷惑だっただろうけど、何度も出かけては返事を聞きに行ったよ。まあ、案の定良い返事はくれなかったけどね。

 そして、あの日……、街でばったり彼女に会って、僕はいつものように返事はどうだい、って声をかけた。いつもだったら、もういいかげんにして、とか、悪い冗談はやめてよ、とか言われるんだけどね、あの日は違っていた。彼女は僕をちらりと一瞥して、こうつぶやいた。ついてきて、話があるの、ってね。僕は少し首を傾げたけれど、彼女がすたすたと歩いていってしまうから、慌ててあとを追ったんだ。……そのときに、気づいておくべきだったよ。彼女の口から、望まない言葉を聞かされるだろう、って。

 彼女が向かっていたのは、広場の横の小道を少し入ったところにある空き家で、子供のころからの、僕たちの秘密の場所だった。あちこち雑多に物が置かれた、物置みたいな建物でね。昔はよく遊んでいたけれど、この歳になってからはほとんど立ち入らなくて、埃やら蜘蛛の巣やらでずいぶんと汚れていたよ。彼女がそんな場所まで僕を連れていったのは、たぶん、そこで言うことを誰にも聞かれたくなかったからだろう。でも、僕はそんなことにも全然気が回らなかった。

 彼女はしばらく沈黙していたけれど、やがて静かにこう言った。――あたし、婚約したの、って。僕は、何を言われたのか理解できなかった。そんな僕に、彼女は淡々と話を続けたよ。相手は遠い街の人で、結婚するのは二ヵ月後、でもいろいろ準備があるから三日後にはこの街を出て、たぶんもう戻らないだろう、って。

 僕は……、僕は本当に、わけがわからなかった。どうして彼女がそんなことを言い出したのか、そもそもどうしてそんなことになっているのか、混乱して、何もわからなくなった。かろうじて、どうして、って聞いたような気もする。でも、彼女は何も答えなかった。僕を見て、一瞬悲しそうな顔をして、でも、じゃあ忙しいから、ってそのまま帰ろうとした。

 僕は必死で彼女を引き留めた。そのとき自分が何を言ったのか、もうよく覚えていない。ただ、本当に必死だったんだ。彼女をそのまま行かせたら、僕は自分を見失ってしまいそうな気がした。ひび割れて、崩れ落ちて砂になってしまうんじゃないかって思った。彼女が、ただ彼女だけが、僕を人間として存在せしめているような、そんな気がしたんだ。

 彼女は、僕の制止を聞き入れなかった。僕の腕を振り払って、出ていこうとした。僕は……、もう一度彼女の腕を掴んで、そのまま手前に引っ張った。彼女は体勢を崩して、小さな悲鳴をあげて床に倒れた。僕はその上に覆いかぶさるようにして、抗う彼女を押さえつけて、それから……、ああ、……僕は、彼女を無理矢理自分のものにしようとしたんだ。驚いたよ……、自分の中に、まさかそんな感情があっただなんて、そんなことをするだなんて、まるきり夢にも思っていなかった。今思い返してみても、どうしてそんな行動に出たのかわからないんだ。……わからないんだよ。

 当たり前のことだけど、彼女も必死で抵抗した。口を塞ごうとした僕の手に、彼女は思い切り噛みついた。僕がひるんだ隙に、なんとか立ち上がって逃げようとした。でも、僕のほうが早かった。なぜだ、って僕は叫んだ。彼女を引きずり倒した。また悲鳴が聞こえた。積んであった物がくずれて、埃が立ち上った。かすかに差しこむ光の中で、それがきらきらと舞っていた。僕はもう一度叫んだ。なぜ君は僕のものにならない、なぜなんだ! 彼女の襟元を掴んで、感情をぶつけるようにがくがくと揺さぶった。そうして……、そこで、気がついたんだ。彼女が頭から血を流して、ぐったりとしていたことに。

 僕は一瞬ののち、事態を理解して、呆然として、思わず両手を離した。彼女の上半身は床にぶつかって、……だけど、もう悲鳴は聞こえなかった。彼女の息遣いも……、鼓動の音も、やがて何一つ……、聞こえてこなくなった。やがて静かに血は固まって、黒ずんで、彼女の頬は冷たくなっていって……。ああ……、もう、彼女はいなくなってしまった。どこにも、僕の大切な彼女は……、もう……。ふふっ、あははは……! いないんだよ、そうなんだ……、そうだったんだよ……!

 ずっとわからなかったことが、僕にはそのとき、ようやくわかったんだ。そう、彼女に見限られた原因……、どうして相手の心が手に入ったら、気持ちが冷めてしまうのか……。僕は……、僕はずっと、手に入らないものが欲しかったんだ。どうしても、何をしても手に入らないもの……、どんなにお金や物を出しても、決して得られないもの……、ずっと、それが欲しかったんだ。僕は……、それまで、何を手に入れても、幸せを感じたことがなかった。幸せになってみたかったんだ……、それを知ってみたかったんだ……。

 そして……、ふふっ……、彼女は、死んでしまった……。もう絶対に、僕のものにはならない……、ははっ、僕は……、僕はやっと手に入れた……やっと手に入れたんだ……。そのとき、僕は……、今までに感じたことのない、不思議な感覚で満たされていくのを感じた……。ああ、僕は……、やっと、手に入れた、そうして……、やっと、幸せを知ることができたんだ……。ずっと、知りたかったんだ、しあわせに……満たされて、……今もずっと、しあわせなんだ……。

 けど……、けど、ねえ、君は知ってる? 幸せって……、どうしてこんなに、胸が痛むんだろう? ふふっ、体が……寒くて、震えが止まらないんだ……、頭も痛くて……、ねえ、なぜだい? 知っているんだろう? みんな、幸せを知っているんだろう? 僕よりもずっと……、知っているんだろう? 教えて……、苦しいんだ……、ははっ。

 駄目だったんだね……、僕は……。幸せには、向いてなかったんだね……。ちょっと、荷が重すぎるよ……、ねえ、君は知ってる……? 知っていたら、どうか教えて……、幸せから……、この幸せから、……逃れるには、どうしたらいいんだい……?