純白の香り
[ 7 ]   偽りの終わりのこと(後編)
 彼女は青ざめた顔で、僕と僕の手にしたナイフとを交互に見やった。その顔は、わずかに恐怖に揺れていた。
「大丈夫……」
 ゆっくりと近づきながら、表情を変えずに僕はつぶやく。
「痛いのは少しの間だけだよ。あとはすぐに楽になれる」
「……あ……」
 あとずさる彼女の背が、茶色い木の壁にぶつかった。
 小さな家の、小さな部屋の中だ。逃げようはない。
 さらにここは林の近くで、周りには他に家もない。たとえ彼女が叫び声を上げたとしても、よほどの物好きがたまたま通りがからないかぎりは、誰かに悟られる心配もない。
「頼むから、おとなしくしていてくれないかな。あまりきみを痛めつけたくないんだ。あのカダルク=ドゥーレンが妹にしたみたいにはね」
 既知の名前にか、はっとしたように彼女は僕を見た。
 そう、その名を出せば、彼女は決して僕の話を聞かずにはいられなくなる。それは彼女の、死んだ父親の名前なのだから。
 僕は立ち止まり、おびえたように僕を見る彼女を睨みつけた。
「知っているかい? サユ=ドゥーレン。きみの父親は、僕の妹を辱めたうえに殺して逃げたんだ。しかも金にあかせて、その事実を事件ごと闇に葬った」
 そこまで言って、僕はおぞましさに顔をしかめた。口にするのもためらわれるようなそれを、あの男はきっと、笑いながらやってのけたのだ。
 それを思っただけで、心の底から憎しみの闇が押し寄せてくる。僕自身すらも呑みこんでしまいそうな、獰猛で抑えがたい感情が――。
「あの男が溺れ死んだとき、僕は嬉しい反面、残念にも思ったよ。この手で殺してやりたかったのに、ってね。でも、あの男に娘がいるって聞いて、だったらその娘を代わりに殺してやろうと思ったんだ。妹が殺されたときと同じ、十七の歳になったらね」
 そう、すべてはそのために為したこと。セラル=チェインガルと偽名を使って彼女に近づいたのも、何度も彼女と会って気を引いたのも、すべては今日、このときのため。
 至福から絶望へと叩き落とし、これ以上ないほどの悲痛の中で、彼女を死に至らしめること。
 それこそが僕の望みであり、願いであり希望だった。
 この心を覆う闇から逃れるための、ただひとつの――。
「だけど、きみを探し出すのにずいぶんと苦労したよ。まさかこんな辺鄙な場所に、お嬢さまが、しかも一人きりで住んでいるだなんて思わなかったからね」
 話し続ける僕を見つめる、彼女の体は小刻みに震えていた。表情は次第に悲痛なものへと変わり、悲鳴のようなか細い声が時折その唇から漏れた。その姿はあまりに痛々しくて、長い時間を費やさせた僕の決意が、ここまで来たにも係わらず揺らいでしまいそうだった。
「……話は、終わりだ。そろそろ、死んでもらうよ」
 手にしたナイフを、確かめるように強く握り締め、僕はまた一歩彼女へ近づいた。
「あ……」
 彼女はびくりとその身を震わせて、すがるように僕を見た。
 おびえて煌めくその瞳が、心にじわりととげを刺す。
「セラル、さん……」
「セラルじゃない、アシェルだ。アシェル=ラングリース」
「……アシェル、さん……」
 もう手が届くほどの距離に迫った僕の名を、彼女はじっと見つめながらつぶやいた。
 震えて掠れるその声は、記憶の底をうずかせて、彼女との思い出を呼び覚ます。それは鈍い痛みを伴い、幻のように揺らめいた。
「……わたし、を……」
 言葉はそこで途切れて、その代わりのように、彼女の両の目から涙がこぼれ落ちた。彼女は息を吸いこみ、何かを続けるように唇を開いた。けれど、それは声にはならずに、そのまま内側に呑みこまれた。
 彼女は深く息を吐いた。吐き出しながら、視線を落とした。祈るように目を閉じて、うっすらとそれを開いて、震えながらかすかに微笑んだ。何かをあきらめたような、どこか寂しがるような、そして胸を締めつけるような、ひどく悲しそうな笑みだった。
 それきり動きを止めた彼女を、僕は冷たいナイフで、永遠に動かないようにした。
 やがて力なく傾ぐ彼女を受け止めて、僕もそのまま、床の上に倒れこんだ。
 その重みを感じながら、鳴りやまない胸の痛みが薄れるまで、ずいぶんと長いことそのままでいた。