純白の香り
[ 8 ]   エピローグ --- 本当の終わりのこと
 街のはずれのさびれた墓地は、太陽のまだ高いこの時間にも、人影一つ見当たらない。管理する者もないのか、逞しい雑草は、どんなに引き抜いても訪れるたびに茂っている。参る者をなくした墓などは、草の海に呑まれて溺れているかのようだ。
 静まり返る墓石の前に、僕が置いた手紙はなかった。その代わりのように、そこにあったのは純白の花。
「ああ……」
 三本の、白いユリ。
 草の中にも負けない香りに、かすかに微笑んで僕はつぶやく。
「今年も、来てくれたんですね」
 誰も訪れることのない、小さなこの墓石の前に。
 白い花から視線を移して、石に刻まれた文字を見やる。僕の名と同じ数だけのアルファベット――忘れられるはずもない、失われた片割れの名前。
 やさしい声でその名をなぞって、僕はそっと目を閉じた。長く息を吐き出して、視界を開く。
「……やっと、終わったよ」
 話しかける言葉に、答える声はどこからもない。
 答える者は、もうどこにもいない。三年前、十七の歳で、殺されてしまったのだから。
「これで、僕の時間は動きだすのかな……。どう思う?」
 けれど、それでも言葉を続ける。きっとどこかで聞いてくれている、そう信じることで、拭えない悲しみを和らげようとするように。
「やっぱり、おかしいかな。きみが止まったままなのに、僕だけ進んでいくだなんてさ……」
 足元に横たえられた白い花を、もっと近くに手向けようと手を伸ばす。そのとき、捧げられた花の下に、淡い色をした何かが置かれているのに気がついた。
 それは奇妙に膨れてはいるものの、どうやら、封筒のようだった。かすかに目を見開いて、僕はそれを引っ張り出した。白い花がはずみで揺れて、揺れる香りが立ちのぼる。
 封筒の表に記されていた文字は、朝露にでも濡れたのか、ところどころにじんでいるが読めなくはない。『アシェル=ラングリースさま』――ユリをくれる人からの、手紙だろうか。
 けれど、昨日の手紙に返したにしては早すぎる。前回の手紙に返事が来たのは一年後のことだったし、今回も、返ってくるなら一年後だと思っていた。
 不思議に思って封を開けると、折りたたまれた紙が数枚と、奥のほうに何か四角いものが入っているのが見えた。とりあえず、手前に入っていた紙を開いてみる。やはり手紙のようだ。見覚えのある筆跡が、僕の名前を綴っている。その後に続く文字を、僕の目は静かに追いかけた。



 『 アシェル=ラングリースさま


  あなたがこの手紙を読まれるころには、私は
  遠いところへ旅立っていることと思います。

  もうお会いすることもかないませんから、
  お預かりしていた品物は、こちらに同封させていただきます。
  このように素敵なものを
  いただけるような資格は、私にはありません。

  あなたの感じたでしょう苦痛はとても正当なもので、
  その想いもしごく当然のものであると、私は思います。
  この身に流れる忌まわしい血を、あの男の存在とともに、私も
  どれほど憎んだかしれません。
  できることなら消し去りたいと、
  そう望んだことも一度や二度ではありません。

  それなのに、それがなければ
  あなたと出会うこともなかったのだという事実は、
  なんという皮肉でしょうか。
  あなたに会うことがなければ、私はきっと
  悲嘆に暮れたまま、この人生を終えていたことでしょう。

  あなたと出会って初めて、私は
  生きることの意味を知りました。
  この瞳に映る世界が、これほどまでに
  さまざまな色で輝いていることを知りました。
  誰かを想うということを、
  かけがえのないあたたかな気持ちを知りました。

  このようなことを書き残して、
  お心に障るかもしれないとは思いましたが、
  どうしてもこのことだけはお伝えしたくて、筆を取りました。
  本当に、心から
  あなたに感謝しています。
  願わくは、想いが果たされたそののちには、
  あなたのお心に平穏が訪れますように。
  ただそればかりを祈らずにはいられません。

  本当に、

  こころから



  ありがとう。

  ありがとう。
  さようなら。
サユ=      』
 僕は立ち尽くしたまま、呆然とその字面を眺めていた。
 署名には姓がなく、その代わりに、何かを書きかけて消したらしいインクの跡が二箇所あった。
 一つ目に消されている文字は、どうやら『D』――『ドゥーレン』、と続けようとしたのだろう。二つ目の染みは、それの四分の一ほどの大きさで、『D』から少し離れた場所、列の中心よりやや上に、点のようにぽつんと付いていた。それは、
 ――『C』。
 静かに、心がつぶやく。
 文字のかたちにすらなってはいなかったのに、気づいてしまった。
 その文字が、示すもの。『C』……、『チェインガル』。
 ささやかな願いだったのか、それとも僅かな希望だったのか。
 彼女自身によって打ち消された、はかなく消える最後の夢――。
「…………っ」
 息を押し殺して、僕は震える指でその紙を握り締めた。手紙の端がくしゃりとゆがむ。やわらかな日差しが、小さな文字の列を照らだした。その文面の、不自然に開いた空白に、爪で引っかいたような文字の跡をうっすらと浮きあがらせた。
『本当に、こころから』
 その続き、は。
「な……」
 書かれることのなかった文字。
 表れることのなかった言葉。
 それでも消しきれなかった、
『あいしています』
 葬れなかった、想い。
「なんで……っ!」
 耐え切れずに叫んだ言葉が、責め立てるように僕を突き刺す。胸の奥が鈍く痛んで、ひどく疼いて鳴りやまない。うずくまるように膝をついた拍子に、震える指からこぼれ落ちた封筒が、墓石に当たって軽い音を立てる。滑り出た、小さな群青のその箱は、確かに僕が彼女に渡した――
「嘘だ……、嘘だ! こんな……!」
 その箱を贈ったときの、彼女の様子を思い出す。中の指環をはめたときの、あの戸惑ったような、嬉しそうな、どこか悲しそうな笑顔を思い出す。
 知っていたのか。
 僕のすべてが偽りだと、彼女は知っていたのか。知っていて、そのうえで、……そのうえで。
『ありがとう』
 手紙の言葉が、ふいに彼女の声となって頭の中に響いた。
「……うそだ……」
 力なくつぶやいて、僕はかすかにかぶりを振った。
 そんなはずがない。知っていたのならなおさら、彼女がそんなことを言えるはずがない。
 ――けれど、それならば。どうして、最後に彼女は微笑んだのか。どうして、自分を殺そうとする者を前に、笑んでみせることができたのか。
 どうして……?
 胸に巣くったやまない痛みに、世界がじわりとにじんでゆがむ。握り締めたままの手紙に、冷たくなった指に、ぽつぽつと水がこぼれた。熱い、冷ややかな僕には、あまりにも熱すぎる水。
 この、胸の痛み、は。
 ぼんやりと、けれどはっきりと。気づいていく。わかってしまう。
 三年前の、あのときと、同じ。
 この苦しさは、かけがえのない大切な存在を失った、その喪失の――
「……うそ、だろう……?」
 ささやくような声は掠れて、誰もいない空間に揺らいで消えた。
 僕はもう一度、小さく首を振った。ぽろぽろと水の玉が落ちて、砕けては消える。
 どうして。
 だって、彼女は。
 何も、……何一つ、言わなかった。
 もし、彼女が言っていたら。僕がアシェル=ラングリースだということを、それを知っていたということを、もしくはこのユリの花のことを、どれか一つでも彼女が口にしていれば。
 そうすれば、もしかしたら。
 僕は、……彼女を。
 本当は。
 本当、は……?
 ためらうように、ゆるやかに、光ににじむ視界を上げる。
 静まり返る墓石の前に、今年も三本の白い花。もう捧げられることのない、無垢と純潔を示す花。
「…………サユ……?」
 震える唇が、音もなくその名を紡ぐ。
 答える声は、どこからもない。
 答える者は、もうどこにもいない。
 瞳に映るすべてのものが、光に呑まれて形を失くす。何もかも融け落ちた世界の中で、純白の香りだけがただ、罪人を哀れむようにかすかに揺れていた。
END.